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「父と息子の物語」としてのトイ・ストーリー-『トイ・ストーリー1・2・3』

超今さらだけど『トイ・ストーリー』シリーズは、特に父親は絶対観ておいた方がいいって!泣いといたほうがいいって!いつか訪れる子離れの時の覚悟を持つためにもさ~!

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去年の夏から秋にかけて『となりのトトロ』に夢中だった娘っこが、最近はもっぱら『トイ・ストーリー』シリーズにはまっております。

トトロにみる子どものセンスオブワンダーを引き出す親のかかわり方-『となりのトトロ』

休みの日はだいたい1~3のどれかを1本観てるし、へたすりゃ2本観る勢い。昨年12月に念願のディズニシーの「トイ・ストーリーマニア」にも行くことができて、その余韻がまだまだ衰えることを知らず、むしろ拍車がかかってるかのように『トイ・ストーリー』の世界にのめり込んでます。

で、トトロの時と同様、子どもがそんだけ観てると親もまたえっらい観るはめになる。そうするとやっぱり親目線でいろいろ気づくこともあるので、その辺をまた書いておこうかと。

シリーズの1~3でいえば、自分はやっぱり3が最も好きで、特に終盤はほぼ号泣。それはなぜかといえば、カウボーイ人形の主人公ウッディの「父性」が濃く描かれてるからなんです。

『トイ・ストーリー』は、3作通じて「おもちゃ同士の友情」っていうテーマがまずどーんとある。そしてそこにぶら下がるようにして、例えば抵抗できずに使い捨てられるおもちゃの辿る顛末(労働者や労働観のメタファーにもなっている)だったり、子ども達の憧れが西部劇のガンマンから宇宙開発・宇宙飛行士に移行していくという近代アメリカの歴史と象徴の移り変わりだったり、誰もがいつか絶対的な死を迎える運命にあるのだという諦観だったり…。こうした様々なメッセージが並行して潜んでるわけね。

そんな中でとりわけ3に濃厚に感じられるのがさっきも言ったように主人公ウッディの「父性」。『トイ・ストーリー』って実は1から3まで、ウッディの持ち主であるアンディの父親が一回も出てこない。作品中で家族として出てくる登場人物は母親と妹だけ。元々いないのか、いるんだけど作品内であえて出してないのかはわからない。けどいずれにしても父親は一切出てはこないし、むしろ意図的に排除しているように見えるわけ。どうしてかというと、それはもう完全にウッディが父親の役割を果たしているってことなんだよね。つまり『トイ・ストーリー』とは実はウッディとアンディの「父と息子の物語」であるとも言える。

母親の役割(母性)が無条件の愛情で包み込むことなら、父親の役割(父性)とは社会性を教えること。この社会性の象徴としてウッディは描かれている。

ラストのシーンでアンディがウッディをはじめとするおもちゃたちを新しい持ち主の女の子に一つ一つ紹介するところがあるんだけど、そこでアンディは最後にウッディのことをこう紹介する。

「強いカウボーイで、勇気があるんだ。優しいし賢いし、でもウッディの一番すごいところは友達を見捨てないこと。絶対に、何があっても傍にいてくれるんだ」

ここは、アンディがウッディのことを深く理解していることを描きながら、実はアンディがそのセリフで言っていることを、ウッディから学んできたということを表してるシーンでもある。

それともう一つグッとくるのが、お互いに依存していた親子関係から、ついに両者がそれぞれ自ら別離を選択するところを描いてるとこ。

親子(あるいは師弟)ってのはいつか「育てる・育てられる」という関係から離れなければいけない。それが親子関係の大前提であるとも言える。その前提がなければただの依存関係であり、親子とは言えない。

3の冒頭では、大学入学のためにひとり暮らしを始めるアンディがウッディだけは大学の寮にに連れて行こうとする。ウッディのほうも保育園や別の女の子の元ではなく、あくまでもアンディの傍にいようとする。つまりまだ相互に依存しあってる状態で、親離れ・子離れが出来ていない状態なんだよね。

それがラストに向かって、お互いに自らが主体的に相手の傍からの別離を選択する。どちらも傍にいる形を選択しようと思えばできたはずなのに。

2人が本当の親子のように通じ合っていて、それでもそれぞれが同時に別離を決意するその内面の移り変わりという成長のプロセスを、直接的なコミュニケーションじゃなく(人間とおもちゃだから)間接的なコミュニケーションを通して表現されるわけ。アンディの語りのときはウッディ達はおもちゃとして無機質な状態のまま感情を表現しない分、ウッディ達がアンディの語りを万感の思いで聞いているであろうことが否応なしに想像されてしまって、これ以上ないほど感動が迫ってくる。。。

あとね、ディテールのとこにもちょっと触れとくと、オープニングで過去の幼少の頃のアンディがウッデイたちで遊んでいる映像が8ミリカメラ風の映像によって流される。その時にかかるBGMがシリーズ通してのメインテーマ曲の『君はともだち』なのね。この『君はともだち』はウッディの声で歌われていて歌詞は明らかにアンディに向けている歌なんです。ちょっと引用すると

俺がついてるぜ 俺がついてるぜ
辛いことばかりでも 君はくじけちゃだめだよ
思い出せよ ともだちを
きみのすぐそばに いつも俺がいる

俺よりもすごいやつは たくさんいるよね
だけど俺よりも君のこと
気にかけるやつは いないよ

っていうような歌ね。で、画面の8ミリカメラ映像がブツっと途切れるのが、ちょうど曲の最後の方の
「時が流れても~ 変わらないもの~♪」
という歌詞が流れるとこなんだけど、実はそのあとに来るはずだった歌詞とは………?

「それは~ 俺たちの絆」………。

つまり、『トイストーリー3』は「俺たちの絆」の映画なんだよってことをオープニングでちゃ~んと示唆してるんだよね。という都合のいい解釈…。

いやほんと父親はこれ観といたほうがいいって。ウッディに重ね合わせて、いつか自分にも訪れる子離れの時の覚悟を持つためにもねぇ…。

まぁ、こんな記事書いてる時点でオマエ相当子離れに難儀するだろ…って自分でも思うけどさ…。

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『WALL・E』 ロボットの〝感情〟が教えてくれるもの。

仮面の下に潜む沈黙の宇宙から…‐『藝人春秋』水道橋博士

読書が好きで、くる日もくる日も飽きずに本を読んでいると、ごくまれに、読み終えた瞬間、自分の全感受能力を動員してもその実感を処理しきれずに言葉を失ってしまう本に出会うことがある。本書もその一つとなった。

読んでる途中から言葉を失ってしまい、ただ「沈黙の宇宙」に漂い、放心するのみ。そして裏表紙を閉じると同時に、沈黙のまま手にしている本を胸の内に抱きしめたくなってしまう。沈黙の宇宙空間に、決して言葉にはできないが確かに存在している何かと共に…。

藝人春秋藝人春秋
(2012/12/06)
水道橋博士

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藝人春愁 (水道橋博士 著)

本書は数多の巨星・名人・怪人芸人たち15名の、その濃厚すぎる生き様を、浅草キッドの水道橋博士が小説のように描写した一冊である。主な登場人物はそのまんま東、甲本ヒロト、草野仁、石倉三郎、古館伊知郎、三又又三、ホリエモン、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、爆笑問題(太田光)、松本人志、稲川淳二。そして通奏低音として、常にビートたけしの存在が色濃く意識される。

本書を読み終えて、本当にただ圧倒され言葉を失ってしまった。一言たりとも感想めいたものをつぶやくことができない。仮に言葉をにできたとしても「すごい…」とか「ヤバい…」とか、表面的なものしか出てこなかっただろう。とてつもないものに出会うと人間は真っ先に言葉を失うらしい。

しかし、しばらく時間が経過すると、冒頭から書いてきたことと矛盾するようだが、その沈黙の中から無理やりにでも語るべき言葉を引き出そうとしている自分に気づく。そして今まさにこうして文章を綴ろうとする衝動に駆られてしまうのだ。

なぜそのような衝動に駆られるのか?その理由はあえて後述することにする。

さて、本書に登場する15名の芸人に共通するもの。それはみな「雄弁」であるということ。それぞれが時に激しく時に穏やかに、時に大胆に時に不敵に、ある種の突き抜けた強度を具えた、逆説的で哲学的な自らの言葉を雄弁に響かせてゆく。

そして芸人達の雄弁な言葉を綴る筆者の言葉もまた雄弁。アナグラムや押韻、メタファーを張り巡らせ、ひとつのセンテンスのなかに幾重にも意味が折り重なり、それらが次々と関係性を持って連鎖していく。その語り部の濃厚な言葉から、語られるそれぞれの芸人がもつ十色が匂い立つかのように浮かび上がってくる。

このようにして、語られる芸人と語り手の濃厚で雄弁な言葉が、シンクロしグルーブし激流となって読み手を襲うのだ。

仮面の下に潜む素顔、それは沈黙の宇宙

本書はしかし、その「雄弁な言葉」だけで構成されているわけではない。むしろその「雄弁な言葉」とは、本書を構成する要素のほんの一部でしかない。

どういうことか?それは綴られた言葉が雄弁かつ濃厚であるが故に、逆説的に、人間という存在が抱える「言葉にならない・言葉にできない」深淵で崇高な何かを照射しているからである。「雄弁な言葉」の字面から、行間から、人間の持つ深遠な宇宙が染み出し、次第に顔を覗かせてくるのだ。

「雄弁な言葉」とは「言葉にならないもの」のほんの一部を一つの表情として外部に知覚させる仮面のことなのだ。つまり芸である。その芸の仮面の下には必ず見えない本当の素顔が隠されている。その素顔こそが「沈黙の宇宙」にある「言葉にできない何か」であり、人間のもつ深淵さなのだ。

本来であれば、芸人とは自らの素顔をさらけ出すことはない。どんな時でも素顔を隠し、人を笑わせなければいけない世界だからだ。

芸能界は親が死んでもトチれない世界なんだよ。だから辛抱だ。辛抱ってのは、辛さを抱きしめるってことだからな。今はひとりで抱きしめろよ!―石倉三郎

芸能人っていうのは、身内に不幸があっても笑ってなきゃならない。陰でどれだけ泣いても苦しくても、テレビでは『はいどうも~』って笑わせなきゃならない。もう、やかましいぐらいよくしゃべって、『あんた明るいねぇ』なんて言われていましたからね。―稲川淳二

しかし、筆者によってその芸という名の仮面が精緻に描写されると、仮面の綻びやズレが段々と露わになってくる。その隙間から漏れ出てくるものが読み手を鷲掴みにし、強引に「沈黙の宇宙」へと放り投げるのである。

自分のことになるが、名作『キン肉マン』にはたくさんの印象的なシーンがある。その中でも特にロビンマスクの仮面が剥奪され、暗幕で覆われた顔面に鋭く光る眼光が露わになったシーンは、強烈にドキリとさせられた。闘いと友情を、熱さとコミカルさで描くのが基本トーンの作品であったが、ロビンマスクがマスクを剥奪されるシーンは一種独特の深みのような側面を『キン肉マン』にもたらした。子どもながらに侵してはいけない神聖な領域を侵してしまったかのような罪悪感にも近い情動を感じてしまったことを覚えている。

また、小学生の頃にワールドプロレスリング中継で流されていたザ・グレート・ムタVSスーパーストロング・マシンの一戦も忘れられない。真夏のよみうりランドの野外のリングで行われたこの一戦。試合終盤に突如としてムタが非情にもマシンのマスクを引き剥がしにかかる。すぐさまマシン軍団によってタオルが被せられるまでのほんの数秒の出来事だったが、ムタの毒切りによって緑色に変色した素顔のマシンの顔面に妖しく光る眼光をカメラが確かに捕えたのだ。この一戦にも、やはり見てはいけないものを見てしまった罪悪感に似た衝撃を受け、掻き乱されるほどに魅了された。

蛇足ながらに言及しておくと、このよみうりランドの一戦は新日ファンなら誰もが知る「オマエ平田だろ!」事件よりも後の出来事であったが、当時小学生の自分には、そのような文脈的な知識は幸いと言っていいのか、まだ持ち合わせていなかった。さらにいえば「しょっぱい試合してスイマセン」事件よりも前の出来事である。当時の小学生はまだ、スーパーストロング・マシンとは「戦慄の殺人魔神」であるという幻想の中にあった。それだけにこの一戦は、冷酷で不気味な笑みを湛えたマスクの裏側の闇の中に、陰影のある表情が潜んでいることを小学生の脳裏に強烈に妬きつけたのだった。

これらの体験と同様に、芸という名の仮面の隙間から、本人の素顔、つまり「沈黙の宇宙」が漏れ出し、染み出してくることによって、遂には自らまでも「沈黙の宇宙」に放り出されてしまう。それこそがこの本が持つ超一流の芸がなせる技なのである。

「沈黙の宇宙」と「死者の記憶」

先ほどから何度も繰り返している「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」。それはいったい何か?内田樹氏の『街場の文体論』に「言葉にならないもの」についてこのような一節がある。

僕らの身体の中心にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものは、かたちあるものではない。それは言葉にならない響きや波動や震えとか、そういうような非言語的な形態で、死者たちから生者へと手渡される。言葉というのは、「言葉にならないもの」をいわば母胎として、そこから生成してくる。それを「ソウル」と言ってもいいし、「生身」と言ってもいいと僕は思います。そこから発してくる言葉だけがほんとに深いところで人を揺さぶる。

街場の文体論街場の文体論
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内田樹

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「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」は、人を揺さぶるような言葉や芸が生成される母胎のようなもの…。

またもっと踏み込むと、「沈黙の宇宙」はあの世・あちら側の世界のことであり、それは「死」に似ている。言葉や芸という、他人が知覚できる表現を仮に「生」にたとえるなら、隣り合わせにある「沈黙の宇宙」は「死」だ。「死」は絶対的な沈黙である。

そして死者が持っていた記憶は「沈黙の宇宙」に残る。偉大な芸人達は、その「沈黙の宇宙」で死者の記憶とつながっていて、奥底で常にその存在を確信し、肯定・受容して、言葉や笑いや歌へと昇華させているのではないか。『街場の文体論』からもう一つ。

みなさん一人一人のなかにも、それぞれが属している集団や共同体のソウル、あるいは親たちからのソウルが「メモリーズ」として輻輳している。見知らぬ他者の、死者たちの記憶がみなさんの中でざわめいている。死者たちの記憶は消えない。ある種の波動のようなかたちで残っていて、それが僕たちの「ソウル」をかたちづくり、そこから他者に届く言葉が不断に生成している。

死者は、生者の知らない記憶を持ちさる。しかし、その記憶は何らかの形で伝達される。誰にも教えられるわけでもなく普段何気なく取っている行動から、ふと亡くなった祖父や祖母や恩師の存在(というよりも質感や匂いといったほうが良いか…)を丸ごと感じてしまうことがある。そんなとき、自分は自分だけで構成されているわけではく、過去の死者たちの記憶のなかで、また新たな記憶を生きていることを実感するのだ。

おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。―まえがき


芸人達の気持ちをコピーする

さて、私が本書を読み終えて言葉を失いながら、それでもこうして稚拙ながらに言葉を綴る理由がおわかり頂けたでしょうか。本書で紹介されている15名の芸人たちと筆者は、意識的か無意識的かの違いこそあれど、常に「沈黙の宇宙」に身を浸し、そこから「雄弁な言葉」や「芸」を生成している。つまりはその〝気持ち〟をコピーしたかったのだ。

「芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、まず自分の好きな表現スタイルを模倣しようとするじゃん。『アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい』って思っちゃもうダメなんだよぉ。アイツがあの音を鳴らした時の〝気持ち〟をコピーするんだよ。衝動を。そうやっていくとオリジナルで一生現役でいられるんだぁ。音をコピーしたり再現したりだと形骸化するだけでさ。もし、その衝動がなくなった時は終わりなんだぁ」―甲本ヒロト

「沈黙の宇宙」から言葉や芸を生成することで、ほんの一瞬でも、「きりもみしながら音速で飛行するかもめのジョナサン」のように、あるいは「金星のパイロンをかすめて輝きながら飛び去る石」になれるのかもしれない。なんてことを思うんだなぁ。

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神の復活祭!?“神様”マイケル・ジョーダン50歳!

ついに50歳になったということは、そろそろ負けず嫌いのマイケルがカムバックしてくるぞ。限界は幻想に過ぎないことを証明しに。



“神様”マイケル・ジョーダンが2013年2月17日に50歳の誕生日を迎えたそうです。それを祝して作られたのが上の動画。おそらく50歳にひっかけて、キャリアを通したオールタイムの超絶プレーTOP50をまとめています。もはやため息しかでませんこの動画。一個一個、「これはいついつの何の試合で、どういう場面で…」って解説していきたいとこなんだけど、それはまぁさすがによしときます。。

それにしてもこうして観てみるとね、改めてプレーオフやファイナルなんかの大一番での試合を決定づける、いわゆる「ザ・ショット」の多いこと多いこと。。誰もが「ジョーダンが打つ」って確信してるのに、誰にも止められない。。あたかも時間を思いのままにコントロールしてるようにすら見える。。

さらに改めて思うのが、緊迫した闘いの真っただ中のプレーなのに、その一連のムーブのフォルムの惚れ惚れするほどの美しさ。。真剣勝負なのにもかかわらず、一人優雅にスラムダンク・コンテスト状態。。やっぱり次元が違う。。

これまできっともう何兆回も使い古されてきた表現なんだろうけど、やっぱりこれ以外に何と言えばいいの?

「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」byラリー・バード

ところで、マイケルは4年前の殿堂入りセレモニーのスピーチでこんなことを言っていました。


One day, you might look up and see me playing the game at 50. Don't laugh. Never say never,
そのうち、皆さんは私が50歳でバスケットボールをしている姿を見ることになるかもしれません。笑わないでください。絶対ないとは決して言いません。

because limits, like fears, are often just an illusion.
何しろ、多くの場合、限界も、恐怖と同じように幻想に過ぎないのですから

―引退セレモニーより

もちろん冗談なのはわかってるんだけど、ジョーダンなのはわかってるから本気にしちゃう………。とかw今まで何兆回も繰り返されてきたと思われるベッタベタなダジャレwをつい言いたくなっちゃうぐらい神々しいんですこの人は。。

ちなみに上記の動画はいま現在、世界中で話題になってるらしいです。あたかもキリストの復活祭のごとく、信者たちが沸きに沸いてる。やっぱり神たる所以だわ~。

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マイケル・ジョーダン殿堂入りセレモニー 限界は幻想に過ぎない

好きなものが苦痛になる倒錯した状況に追い詰める、体罰。

最近のニュースから体罰についてちょっと考えてたら、色々ぶわ~っと想起してくるものがあってね。それでルサンチマン成分濃いめの、めんどくさい感じのツィートを連続してTwitter上に流したんだけど、これ、結構自分にとってトラウマ級にデカいトピックスだぞ…と思い始めたのと、まだ言い足りんってことがあるな~と思えてきたので、改めてブログにも書いてみることにした。

高校生の頃は、それこそ全国に出るか出ないかぐらいの高校のバスケ部だったんだけど、もう笑っちゃうぐらいにバンバン殴られたんだよなぁ。
「いついつの試合で殴られたときに舞った汗しぶきに虹が見えてめっちゃキレイだった!」
とか今でも自虐ネタで話題にするぐらいにw

ミスすると体罰が待ってる環境だとさ、萎縮しちゃって本来その人が持ってる力が出せなくなっちゃうんだよね。だって誰だって殴られたかないから集中できなくなっちゃうじゃんそんなもん。フロー状態に持ってくには専念と集中が必要なんだから。

それで、萎縮して思い切ったプレーができずにミスする→殴られる→萎縮する…っていう負のループに陥ることになる。もうこうなっちゃうとプレーしてて楽しいもクソもないよね。

考えてもみてよ。本来バスケが好きで好きで仕方なくてやってたのに、そのバスケが段々好きなのかどうかわからなくなり、そのうち苦痛になっていく。本来バスケを通じて自分を解放したい、もっと自分を高めたいと思っていたのに、そのうちそんな純粋な想いによってむしろ無力感と絶望感で追い詰められていく。こういう倒錯した状況に貶められるんだよ。何これ?理不尽そのものじゃん。

自分はたまたま、殴られるという状況そのものをユーモアに転嫁してくれる仲間がいたり、ハイスタちゃんの『ANGRY FIST』をひたすら聴きながら、顧問に怒りの鉄拳喰らわす妄想して鬱憤を発散するようなボンクラな性格が幸いして、ほんとにたまたま、自分自身を見失わずに暗黒サイドに落ちずに済んだんだけど…。

一度、都を4つに分けた地区の選抜に選ばれたことがあって、普段の部活の練習とは別に選抜の練習や試合に行ったりするんだけど、それがもうむちゃくちゃ楽しかった。それこそ小学生の頃にバスケを初めてプレーした時のような根源的な楽しさなのね。監督は別の高校の先生だから体罰なんてないし、認められてるという実感があったからかなぁ。 高校の部活を思い返すとき、最も楽しかったのはコレですわいw

もちろん高校生なんてほっときゃすぐ弛緩しまくるからさ、厳しさは絶対必要なのよ。でもそれは楽しく自分らしいプレーがのびのびできる環境の中で、はじめて素直に真摯に受け止められるものなんだよね。

なのでスポーツ活動を通じて人間性を高めるのが運動系の部活動の意義だとするなら、自律的な成長をスポイルする理不尽な体罰の常態化なんて、ナンセンスじゃい、と、愛のムチという名のありがた~い指導を受けた側としては、実感せざるを得ないわけね。

サッカーのEURO2000でフランス代表が優勝した時の監督ロジェ・ルメールが言ってた
「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」
ってことばがあるのね。シンプルでいて真理を突いてるでしょ。

自律的な成長って環境との相互作用によって促進されて行くものだから、とりわけ生徒が置かれる環境に大きな影響力を持つ指導者には工夫がいるわけ。しかも生徒一人ひとりに対して決まったやり方なんてないから、それこそ指導者側が常に学ばなきゃいけないし忍耐もいる。その観点からいえば体罰って最も安易な手段で、工夫なんて何もない。何も考えずに手だけ出してればいいんだから。そこには成長や発展や学びはない。

こうして、体罰とかパワハラとかの安易な手段を使わずにいかに自律的な向上心や好奇心を引き出すか?ってのが、高校時代の部活での暗澹たる体験から引き出した、子どもや仕事で人に関わるときの持論になった(こうして書くと別に大した持論でも何でもねぇけどw)。

でも百歩…いや千歩譲って、もしそれでも体罰するなら、プロレス技で、ってのならまだ許せる気がする。テキトーぶっこきやがったらコブラツイスト!またはスモールパッケージホールド!はたまたナガタロック(白目付き)!とかね。これなら怒ってんのにどこか滑稽になって良いバランスになるんじゃないの!?

そうやって考えていくと、プロレスってやっぱり愛があるんだよなぁ(という意味不明な着地)。

体罰は、いくら殴る側が愛だよと言ったところで、そうじゃないことは殴られてる側が一番よくわかる。少なくとも自分は愛と虚栄心をすり替えて思考停止なんて絶対にしたくはないぞぉぉぉぉぉ。

新しいキャリアのつくりかた!?‐『新しい市場のつくりかた』三宅 秀道

かってブルーハーツが「写真には写らない美しさがある」「劣等生で十分だ」と歌って価値の反転を起こしてくれたような優しさがこの本には、ある。なんじゃそら?と思われるかもしれないけど、自分はこの本読んでてちょっと抱きしめたくなるほどの優しさを感じちゃいました~。

新しい市場のつくりかた新しい市場のつくりかた
(2012/10/12)
三宅 秀道

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本書はその名のとおり、変化の激しい現在、今ある技術をただ上書きしていくのではなく、いかに問題を発明しこれまでにないライフスタイルを提案して市場を作るか?ということについて書かれた一冊です。こうして書くと「えぇ…ガチガチのびじねすぼんじゃんw」と思われるかもしれないけど、本書に関しては良い意味で高尚さが全くなく、様々な余談に寄り道しながら、肩の力の抜けたくだけた文章で書かれたとても好感を持てる一冊です。

で、新商品企画を行う上で「文化開発」「問題発明」「文化振興財団的企業」といった非常に重要な概念が出てくるのですが、その辺の切り口、いわば本書のキモの部分は他のブログなんかに書かれてるだろうし、もっといえば本書を読んだ方が理解が早いと思うので、ぜひ直接あたってもらいたいです。ここではいくつかの引用にとどめることにします。

技術の話の大半というのは、いわば「市場の成長拡大」にまつわる話であって、そうなる前の段階をしっかりと見なければいけません。本当に市場が創造される最初の最初は、生活をこんなふうに変化させたい、という文化の話であり、企業の職分でいうと技術開発ではなく、企画にまつわる話になります。

「文化振興財団的企業」を目指せ
必ずしも資本力や技術力に恵まれていない企業でも、それまでの世の中になかった新しい文化習慣を構想し、提案し、普及させることで、人々がそれまで消費していなかったものを消費するように社会をつくり変え、その変化の先頭に立つことで、文化的優位を構築し、その上に事業を展開するという手法です。

社会を変える大局観
「商品企画」の戦略とは、つまりは新企画で社会を変えるぐらいの行為です。そのことはつまり、いっそ新しい社会をつくる、それだけのビジョンを持っておく、ということです。(略)読者のみなさんの身の回りにあるどんな消費財も、モノであれサービスであれ、そもそもその商品のコンセプトから創造された事前と事後を比較すれば、社会のライフスタイルのありようそのものを変えていることが理解できるはずです。
どうせ社会を変えてしまうのが新企画商品であるならば、どのように社会が変わればより良いのか、ビジョンがないようでは無責任である、それだけの可能性を持った行為が、商品を企画するという行為であると思います。

で、そういうこととは別に、自分が1つだけこの本について言及しておきたいのは、冒頭でも触れたとおり、この本、ムチャクチャ優しい、ってことです!

どういうことかというと、商品開発・サービス開発・事業開発を本当にゼロから起こしていく場合、その役割を担う人は本質的に組織に属していながらアウトサイダーだと思うんです。そのアウトサイダーの立場の人に対して絶対的に受容してくれているようなスタンスが根底にあるんですよ。

今までと同じ環境の中に没入していては新しい問題は見えてこないし、それに対する解決策を構築する際に組み合わせるアイデアも得られない。だから新商品企画に携わる人はアウトサイダー的に、本書でも触れられているように「妙に組織的でないポジション」に居て、多様な現場に足を運び、社内のリソースを最大限に活かしながら従来の固定概念から離れて解決策を組み立てていく必要があるんです。

でも、その「妙に組織的でないポジション」に居るアウトサイダーとは、周囲から非常に見えづらく理解されづらい立場でもあるんですよね。現状の組織の中ではまだまだこの人たちがカポッとハマる受け皿・くぼみがなく、どうも浮ついたマイノリティな存在になりがちだと思うんです。

例えば従来の「仕事をしてる」イメージって、PCに向かってカチャカチャ何か入力してるだとか、ひっきりなしに電話して発注したり指示してるだとか、機械に向かって作業してるだとか、いかにも汗水たらして必死に手足を動かしている誰が見えてもわかる姿をもって仕事してるって認識されがちじゃないですか。

でもアウトサイダー的に新商品企画・開発に携わってる人は、お客さんのところばっかり行って本筋とあんまり関係ない話しをやたらしてるだとか、本屋で長時間ウロウロしてるだとか、一人でボーっと考え事してるだとか、傍から見て「全然仕事してねぇじゃねぇか!」って突っ込まれそうなことばっかりやってるんですよ。あと、突拍子もないこと言い出して「なに言ってんだコイツは!」って怒られたりとか。でも本人は社会のために、会社のために、頭の中で真剣に必死に汗水たらしながら、ときにアナロジカルに、ときにロジカルに、今後を見据えてビジョンとスキームを構築しようとしている…。ムダに見えることでも、本人はムダなことなんて何一つないと真剣に考えて取り組んでいる…。ただ役割上、それが短期的な成果として見えづらいだけなんです…。

※もちろん前者がダメで後者が尊いと言いたいわけでは全くありません。どの仕事にもその役割があり、その役割に真剣に取り組むことはどれも等しく尊いです。

本書で取り上げられる事例で出てくる人は「トップ自身か、トップがその裁量に正当性を認めた担当者」なので、ある程度アウトサイダーとして社内から認識されてる人だと思うんですけど、それ以外のほとんどの企業で実際にこうした立場にいる人は、周囲にあまり理解されないまま、個々の環境の中でひたすら孤独な闘いを強いられているケースが多いんじゃないかと推測します。

そういう孤独なアウトサイダー達にとって「これでいいんだよな!」と鼓舞されるような、自分を全肯定されるような、クサイ言い方すれば勇気や活力がもらえるような一冊ですよ、ほんとに。

誰かが家元をやらなきゃ!
「これから市場での競争に勝つ評価尺度には、新しい別の要因が入ってくるんじゃない?」と技術者たちの問題設定に水を差すことを誰かがしなくてはなりません。そして、その「誰か」は、広く社会を見据えていなければならないのです。

新しい価値を開発するために、社会に目を向け、観察を働かせる、そのとき必要となるのは、どんな観察対象からも何かしらの洞察を汲み取ろうとする姿勢であり、その基盤には「どんな人生にも意味がある」という意識、この感覚ではないかと思うのです。

もっといえば別に新商品企画の担当者だけでなく、以下のような感覚を持ってる人、組織の中で肩身の狭い思いをしている人にとっても救われる1冊なんじゃないかな?

・アイデアをいくら提案しても決定権を持つ目上の人間と絶望的に話しが通じないと感じている人
・「アイデアはいいけどそれにおぼれるな!」とか、よくわかんない怒られ方しがちな人
・花形部署とは程遠い、辺境の部署にいる人
・組織に属しながらも完全にそこに没入できないような感覚を持ってる人
・ひとつのことをひたすら掘り下げていくよりも、分野の壁を越えて全体を捉えることに志向性を持っている人

混沌のもつ可能性
自分と違う考えの人、自分と立場が違う人、自分と違う欲求を持っている人、自分と違う技術や経営資源を持っている人と、他者と他者として真っ向から交流し情報を取ってきてこそ、未整理の混沌の中から良い偶然を必然として発生させることができる。それを社内に持って帰ってきて、取りこんで、新しい市場創造につなげる、そういう生き方が確かにあるのです。

というわけで、この本自体が実は「新商品企画の本質の理解されなさ」という問題発明をし、「文化開発」という今まで見えなかった定義を提示して、新しい仕事のあり方や新しい文化を創ろうとする、本書で述べている概念の事例そのものとなるような心意気と優しさに満ちた一冊なんです!「新しい市場のつくりかた」=「新しいキャリアのつくりかた」としても読めちゃうよ。ぜひともご一読を!
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