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『海辺のカフカ』村上春樹 万物はメタファーである

ふぅ~。いや~今さら『海辺のカフカ』を読みましたよ。

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村上春樹作品はですね、学生時代に確か『ノルウェイの森』と友人に勧められて『ねじまき鳥クロニクル』を読んだと思うんですけど、当時はどうも村上春樹は肌に合わないって思ってしまって、この2冊についてもあまりよく覚えてません。ひとたび読んでしまうとストーリーの不思議さと描写の表現の深さがものすごくて最後まで読まずにはいられない中毒性があるんだけれども、現実と非現実の境目を行ったり来たりする独特の世界観がどうしても自分を混乱させてしまう…。「自分が振り回されてしまう」という表現のほうが正しいのかな。とにかくついていくのが精いっぱいで相当に集中して読まないとすぐ置いてかれる感があって体力もいるし、難しいなぁ・難解だなぁというのがこれまでの村上春樹評でした。

ということもあってしばらく村上春樹からは遠ざかっていたのですが、最近村上春樹に会いに行く‐プレジデントというエントリーを読んで、村上春樹という人間に対する興味がふつふつと沸いてきたのと、元々梅田望夫さんの『ウェブ時代をゆく』に

村上春樹『海辺のカフカ』にこんな一節がある。主人公・田村カフカが中学時代を振り返る場面だ。「それでも学校の授業だけはずいぶん熱心に聞いた。(中略)教室で教わることは好きも嫌いもなくひとつ残らず、しっかりと頭の中に吸収しておいたほうがいいぜ。君はただの吸い取り紙になるんだ。なにを残して何を捨てるかは、あとになって決めればいいんだからさ。僕はその忠告に従った(中略)。意識を集中し、脳を海綿のようにし、教室で語られるすべての言葉に耳をすませ、頭にしみこませた。それらを限られた時間の中で理解し、記憶した」(新潮文庫上巻 十九~二十貢)
この一節を読んだとき、これは村上からの十代前半の子供たちへの真摯なメッセージと思い、私はとても共感した。



ということが書かれていて、ずっとずっと気になっていました。また作品が海外でも評判のようで食わず嫌いしてたら世界から置いてかれるぞという焦りのようなものもあり、最近何と言うか、ものすごく『村上春樹』というワードにアンテナが向いているような気がしていたのです。というわけでこの『海辺のカフカ』を読んでみました。


で、読んだ感想としては、一言で言うとやっぱり圧倒されてしまいました。それはストーリーにも、日本語をここまで深く使えるのかというぐらいの描写の表現にも、そこにある意味付けにも。あと文学史や音楽的な幅広くも深い造詣までを組み込んだ、ありとあらゆる知を集結させてクモの巣のように交互交互に何重にも交差させて、ひとつの場面に反映している表現の奥深さに対して、素直な畏敬の気持ちも持ちます。そしてやっぱりむさぼるように読み進めて行きたくなる中毒性があります。

それから難解ではあるけれども割と今回はすんなりと入って来た、という感覚がありました。でも入ってくる量が半端じゃなさ過ぎてうまく整理できない、という感じです。とはいえ村上作品を読んでなんとなく見えてくるものがあるというのは私が年をとって少しは物事を理解できるようになったからなのか?と、思ったりもしましたが、そうではなく実はこの本の中にある意味村上春樹作品の読み方のヒントのようなものを2つ見つけてしまったんです。1つは

「万物はメタファーである」

つまり世の中のすべてはメタファー(比喩)であるということ。この作品の中で何度も何度もこの表現が使われています。この作品自体もつまりはメタファーであって、その裏にあるメタファーされた本質をみる、ということが大事なんじゃないかと、そんな風に考えて読むと、実は様々なメッセージがここに込められている作品ではないかと気づけるわけです。どうでもいい余計な詮索は抜きにして考えるといろいろ見えてくることがあります。

2つ目はこのストーリーの中に出てくるカーネル・サンダースという名のおっさん(読んでない人にはなんのこっちゃさっぱりだと思いますが…)。このおっさんは自分のことを「概念」だといいます。今は仮に人間の形をしているが神でも仏でもないしもともと感情もないものであるから人間とは違う心の動きをすると。

ホシノちゃんがこのおっさんに「もともとはかたちのないそんなものが、どうしてマンションの部屋をかりれるんだい?」と問いかけるとおっさんがえらい剣幕で怒るというシーンがあるんですが、この小説自体が実は小説の形をとっているだけで、これを通じてメッセージを伝えたいだけなのだということをカーネルが代弁しているように感じます。よく村上作品に対する批判として細かいストーリーの整合性がどうとか話しが完結してないだとか、突拍子すぎるとかって枝葉の部分についてよく言われますが、そんな細かいことに振り回されてあーだこーだ言うのはホシノちゃんがそんなくだらないことを聞くのと一緒だということ言いたいのではないかと感じました。まぁこれは何もこのことだけでなく、もっと大きい普遍的な意味でもメタファーされているんですが。

で、そうやって見ていくとこの物語には、ざっと気づいただけでも、人間の時間、記憶、差別、性同一性障害、障害者、恋愛、親子関係、闇、自然、生き方、考え方、想像力を欠いた狭量への怒り、自己の投影と自己意識、自由と責任、ダークプレイス、現実を生きること、などなどさまざまなメッセージがここに隠されています。圧倒されるのはこれらのメッセージがメタファーに形を変えて、目まぐるしく万華鏡のように入れ替わり立ち替わり、重要でない文章は一つもないと言えるぐらいの濃密さと共に迫ってくるからなのです。

自分が気づいたメッセージについて書こうとすると、そんなに沢山は書けないですし、それだけで混乱してわけがわからなくなるので、ひとつだけ書いておきます。

現実と非現実

人はやはり現実を生きている。本当に大切なのはこの現実の世界において前を向いて歩き、自分を獲得していくこと。非現実の中で立ち止まってはいけないというメッセージを感じました。

先ほどご紹介した村上春樹に会いに行く‐プレジデントというエントリーで非常に興味深い一文。

質疑応答で、村上さんが話したことの中でとくに印象に残ったのは、「ダークプレイス」の話だった。

 僕は夜9時に寝て、朝4時か5時に起きて、3、4時間ほど書きます。早朝に起きて心の中の「地下室」までおりていくんです。そのあと、太陽のもとでジョギングをする。もう、25、6年走っている。暗さと明るさのバランスをとるんです。ダークプレイスに行くためには、肉体的にタフでないといけません。そこから帰ってくるには強くないといけないんです。強くなければ帰ってこれなくなってしまう。僕は「創作(make up)」しているのではなく、ダークプレイスで「観察(observe)」しているのです。心の奥底にあるダークプレイスまでに深く入っていくのは、危険で恐ろしいことです。世の中にはそこまで降りていかない人もいますよ。でも本当に、真剣に、何かをしようと思ったら、そこへ行かなくてはならない。



村上春樹作品におけるこの「ダークプレイス」は共通するテーマでもあります。それが今回も濃厚に感じられます。

主人公のカフカは15歳の現実にはいないはずの少女に恋をします。そしてそこからに深みにはまり非現実の世界、つまりダークプレイスへ足を踏み入れてしまいます。また佐伯さんという女性は過去の苦しい記憶から前に進めずダークプレイスに生き続けてしまい、残りの人生をただただ費やすように生きていきます。

非現実の世界は「時間」という概念はそんなに重要な問題じゃない。時間が重要ではないということはそこに立ち止まったままでいいということで、それ以上に発展はない。入口の向こう側の世界とはつまりそういうところなのです。佐伯さんはそこから出られなくなってしまった。ナカタさんはそこへ無理やり引きずり込まれてしまった。カフカはそこへ自ら踏み込んで行ってしまった。

登場人物のさくらという女性は「そんなところからは戻ってきなさい」と言いいます。カフカはさくらさんと話していると現実的なところにつなぎとめられている気持ちになると言っていました。

人は皆ある意味一人ひとり孤独であり、自分自身とは何か、という問いに対する答えを獲得しようとすると、村上春樹のように自分自身の中に深く深く降りていくことになります。その行為自体は必要なことかもしれませんが、そこは閉ざされた世界であり、そこは自分にとって楽園であり、また危険な場所でもあります。現実に何かの鎖でつなぎとめられていなければ、戻ってくることはできません。それは深い森(非現実の世界)に入って行き、装備(現実につなぎとめている鎖)をすてて深く突き進んで行ってしまったカフカのように。

つまり自分の深層心理に降りていくことの危険さを理解しつつ、自分でコントロールできる自分を手に入れておかなければ、時間は関係ない向こう側に引きずり込まれてしまい、現実においてはそれ以上の発展が無くなってしまいます。

また「個体と客体」という言葉がでできます。人は他者と交わり個体と客体を交換し合うことでも自己を認識することができる。人との関わり、社会との関わり、人の創作物との関わり、そういうものに自己を投影することでそこに自分の姿を発見し、自分を獲得するのです。客体は個体を映し出す鏡なのです。深層心理に降りていくということとは対照的に自分の中だけでなく、外界からも自分を獲得できる方法があるということなのです。この2つをきちんと理解しておく必要性を感じます。

そしてこの本の世界観自体がある意味非現実の世界であり、ここに没頭してしまうのは危険であり、あくまでもここから得たメッセージを現実の自分の世界できちっとアウトプットしていくことが大事であるということも感じます。というかこの本の世界にどっぷりつかってしまうということは村上春樹自身のダークプレイスにどっぷりつかってしまうってことですから。

そしてもうひとつだけ印象の残ったこと。佐伯さんがカフカに向かって言ったセリフ

「私があなたにだけ求めているのはたったひとつだけ」「あなたにわたしのことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、他のすべての人に忘れられたってかまなわない」



またナカタさんとずっと行動を共にしていたホシノちゃんが最後に語りかけたセリフ

「これから何かちょっとしたことがあるたびに、ナカタさんならこういうときにどうするだろうって、俺はいちいち考えるんじゃねぇかってさ。なんとなくそういう気がするんだね。で、そういうのは結構大きなことだと思うんだ。つまりある意味ではナカタさんの一部は、俺っちの中でこれからも生き続けるってことだからね。まあんまり大した入れ物じゃねってことはたしかだけどさ、でも何もないよりゃいいだろう」



こうしてカフカもホシノちゃんも、この世に生けるものは、この世にいない人の想いを胸に「現実の世界」へと戻っていきます。

何もかも空っぽで自分の意志で生きたことがなかったナカタさんも最後は本当の自分に戻りたいと言っていました。文字が読めるようになって図書館でたくさん本を読みたいと。その想いは結局かなえられず、ナカタさんの強制的に自分を奪われ利用され続ける人生にある種の無常感を感じていたのですが、最後のこのセリフに救われるような思いがしました。

誰かの心の中に残りつづけること、これこそが人の生きる意味、生きた証、ではないかと思いますし、自然とそれを探し求めて人は生きているのだと感じました。


というわけで、まだまだ私自身も受け止めたメッセージをきちんと整理ができていないというのが正直なところで、こんなとりとめのない文章となってしまいました。村上春樹作品に向き合うのはホント体力いるな~と痛感しました。ふぅ~。

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COMMENT

僕も「海辺のカフカ」読みました
とても面白かったですねー

2011.01.05| URL| 大島さん #- [編集]

正直カフカを読み終わったときに何が言いたい本なのか全くわかりませんでした。
この感想(解説)を読ませて頂いて何となく理解できました。
すごいです。ありがとうございます。

2011.11.16| URL| カーネル #- [編集]

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