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ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」 評を聴いて「評論」について考えてみた

アンタも自分のことばでラップ(評論)しちゃいなよ!って話です。

4/28 ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」

いや~先週末のTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』のザ・シネマハスラーのコーナーで、な、な、なんと投稿したメールを読まれてしまいました…!

今回のシネマハスラーのお題作品『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を事前に鑑賞して、これがまぁ良かったんで半ば衝動的に感想メール書いて送ったら拾われた…。ラジオ番組にメールを投稿するなんて初めてだったんで、絶対読まれるわけねぇし…と思ってペンネーム超適当に付けたことを今更すんごい後悔…。あぁ恥ずかしい。

で、メールを読まれたからシネマハスラーの話がしたいわけではなく(まぁそれも何%かはあるけど…)、今回の宇多丸さんの評論がまた素晴らしくてガンガン触発されちゃったので、聴いてて考えたことを書いてみようとこのエントリー。


まず、できればこの映画を観たうえで上のPodcastを聴いてもらえれば1番良いんだけど、とにかく宇多丸さんの熱量がハンパじゃない。特に「ラスト10分の完成度は異常」とか「この作品は現実と混同してしまうパワーがある」「ラストのラップが作品全体の円環構造になっていて、ここはもう腹の底から震えるような感動を味わった…」とか、もうこれ聴いてるだけで、むしろ映画観た時と同じくらい居てもたってもいられないような、突き動かされるものを感じてしまう…。

「評論にふれる」ということ

自分はよく、映画や本、音楽、サッカーの試合なんかのコンテンツ、いわば1次的創作物にふれると、どうしてもそのコンテンツに対するの誰かの評論・批評にあたりたくなる。もちろん、評論とか批評を聴いたり読んだりしただけでそのコンテンツを全て知ったような気になってしまうのは問題外。あくまでその元になる1次的創作物による情緒的な体験があることが前提。そのうえでたとえば映画評論や書評、ディスクレビュー、ライブレポ、マッチレポなんかにあたるのが、もう楽しくて仕方ない。なぜかというと、2つ理由があります。

1つめは自分とは違う他者の意見を通して、違う視点を得られること。違う人の意見にふれて、共感したり同意したり、逆に同意できなかったり、あるいは全く思いもよらなかった視点を得たりする。すると自分の言語化できていなかったぼんやりとしたイメージが相対化されて、明確に浮き彫りになる。他人の意見を鵜呑みにするでもなく、全否定するでもなく、自分の考えの補助線にしちゃうんです。

2つめは、評論や批評を通じて、ときに論者の生き様や、その人が大切にしている何かが如実に立ち昇ってくるのを垣間見られるのがとにかくおもしろい。コンテンツを語ってるのか、自分を語ってるのか、その境界線が曖昧になって一体化することがあるんです。コンテンツに自分自身を投影する、あるいはそうせざるを得ないというようなとり憑かれた感がもう大好き。

今回の「SRサイタマノラッパー」評で言えば、「EAST ENDと出会った頃を思い出した。仲間との出会いはライムスターの活動にとって救いだった」と自らの活動初期を回想するくだりとかね。

「評論する」ということ

で、もっというと、他者の評論や批評によって明確になった自分のイメージは積極的にアウトプットしたらいいと思う。つまり、自分でも評論しろってこと。

いま上で書いたように、受け取ったコンテンツについて評論するというのは、客体であるコンテンツを鏡にして、個体である自分自身を明確に浮かび上がらせる行為なんです。下手な自己分析なんかよりよっぽど自己理解につながる。別に高尚で立派な意見じゃなくたっていいんです。だいたいでいい。その時点で自分が感じているイメージをもっとも近いことばで表すだけ。

それに評論とかって、一次的創作物のおまけでしかないと思われてるかもしれないけど、これも実は立派な創作なんじゃないかと思うんです。

岡本太郎も名著『今日の芸術』でこう書いています。

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あなた自身を創造する
私の言いのたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果に過ぎないのですから、かならずしも作品を残さなければ想像しなかった、なんて考える必要もありません。(中略)
だから、創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたらせることは、りっぱな創造です。
つまり、自分自身の、人間形成、精神の確立です。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身も魂もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を創造しているのです。

搾取のサイクルから自由になる

今回の評論で宇多丸さんは「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」のテーマを一言で「夢と搾取」の映画だって言ってたんだけど、これを借りるなら、自分の好きなもの・感動したことについて評論することは「搾取するものされるもの」のサイクルから自由になることでもある。

例えば「会社で働くこと」だってある面では「搾取するものされるもの」の側面を内包しているわけです。そういうサイクルの中で日々もがいている人も、感動したこと・好きなこと・気づいたことについて自分のことばでラップする(評論する)ことで、窮屈なシステムから少なくとも精神的には解き放たれる。

自分のことばで自分の意見をアウトプットしながら確固たる自己形成を積み上げてる人は、仮に「搾取のサイクル」に取り込まれていたとしても、むしろその「搾取のサイクル」を自分に引き付けて利用したり、「搾取のサイクル」に変容をもたらすことができるのね。これホントだから。

映画の中で、IKKU達だってあの悪徳業者達の恣意的な提案をむしろ利用してたでしょ。そういうことです。観た人にしかわからんだろうけど。

というわけで、結局何が言いたいかって言うと、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』も「ザ・シネマハスラー」も最高じゃい!ってこと!現実と作品がほんと混ぜこぜになる!いいから観ろ!聴け!

↓ヤバイから聴いて!
4/28 ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」

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