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『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル 生きる意味を「問う」のではなく「問われている」。


生きる意味ってなんだろう?

自分とは何者?自分は何のために生まれてきたの?幸せって何?何で死ぬの?

人は生きていれば少なからずこのような自分の存在意義を問う疑問に突き当たるのではないでしょうか?ついこの間も、友人と飲んでいて、その友人からもそんな問いが発せられていました。。。

そんな時は必ずこの本を手にとるべきです。大げさですが、人の生き方考え方の根幹を、良い意味で大きく揺さぶってくれる、人生を変えてしまうほどの魂がこめられた必見の書です。

夜と霧 新版夜と霧 新版
(2002/11/06)
ヴィクトール・E・フランクル

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こちらの一冊は精神医学者であった筆者が、あの悪名高きアウシュヴィッツに送られ生還するまで過ごした壮絶な日々、その収容所の内側での体験を記し、また心理学的な立場から振り返ったものです。と、私が改めて言うまでもなく、原初の初版が1947年で、すでに60年以上も世界中で読み継がれている名書です。

この本には2つの大きな意義があると考えます。まず1点目はあのアウシュヴィッツの、想像を絶する極限の状況と精神状態を筆者の視点から(たとえほんの一部分であったとしても)半世紀以上経た今日の日本に暮らす我々も疑似体験ができること。

そしてもう一点が、心理学的観点から人間が生きていく上で立ちはだかる困難を、どういった態度で認識し立ち向かうべきか、そしてそのことを通して我々人間の存在、在りようとは何か?について言及していること。


収容所の内側での体験から筆者が得たものは、「精神の自由」が人には宿っているということ。人間としての自由も尊厳も奪われ、名前もなく番号のみの存在となり、自分の運命は外的な要因に弄ばれる単なるモノとなりはてたとしても、最後の最後まで己の尊厳を守る人間になるかどうかは自分で決断を下せる。「精神の自由」だけは自分の意志さえあれば奪われやしない。

この「精神の自由」を持ち続けられるかどうかは、収容所を生きしのぐことができないのなら生きていることに意味はない、と考えるのではなく、私を取り巻くこのすべての苦しみや死にはどんな意味があるのか?と考えられるかどうかです。筆者によれば、運命も死ぬことも生きることの一部であり、苦悩と死があってこそ人間という存在は初めて完全なものになるという、それこそここ最近ずっと個人的に考えている「生と死は一体」であるという死生観にも繋がる考え方でした。

筆者が自分に与えられた運命に対してとった態度として非常に興味深い一文がありました。

むごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、わたしはトリックを弄した。突然、わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今私わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される……

本当に驚くべきことに、精神的にも肉体的にも、言葉で表しようのない極限の状況の中で、筆者がその苦しみに対して超然とした態度でおり、それらをまるで過去のように見なし、自分の苦しみともどもを、自分自身の興味深い心理学研究の対象としてしまっているのです。

この超然とした態度は、人が何か困難に突き当たった時に、あたかも困難そのものを自分の手のひらの上に載せ、困難を乗り越えた自分を想像し、その経験そのものを自分のユニークさとして租借してしまうような客観視がいかに大切かということを教えてくれますし、ここにこそ人間にしか持てない精神の深みを感じます。

そして第二章の「収容所生活」の小見出し「生きる意味を問う」の段落は本当にもうすべて必見。まるごとここに引用したいぐらいの言葉が続きます。一部分だけ抜き出すと…

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

自らが生きることの意味を問うのではなく、常に生きる意味を問われているのだ、と。

具体的な運命が人を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙でたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

人はここまでの高みに達することができるのだということに身震いすら覚えます。

「精神の自由」以外の一切の自由を奪われたからこそ、このような考え方が自分を保つたった一つの頼みの綱であり、絶望から踏みとどまらせてくれたのだそうです。

私たちにとっての生きる意味とは、死もまた含む全体としての意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることの意味だった。

今日の日本においてこのような極限の状態に陥れられることは基本的人権や平和主義(戦争放棄)の観点からももはやありえませんし、当然ながらそれを望むこともありません。しかしながらこの物質的な豊さや恵まれた環境こそが、今日の我々が自分の人生を流されるままに生き、「生きる意味」を見いだせないことへも大きく繋がっていると感じます。

最近のTVでよくみられる「感動」の受け売りはそれを如実に反映しているようにも感じられます。自分の内なる声に耳を傾けず、なんとな~くTVから流されてくる作られた感動に依存し、そこに自分自身を見出せたような気になっているように思われます。

だからこそ、この本を読み、すべてを奪われた「精神の自由」のみの状況を疑似体験し、その状況に置かれたとき自分ならどのような態度をとるだろうか?自分はどうあるべきか?と考える機会を得ることの意義の大きさは計り知れないものではないでしょうか。

わたしたちは一瞬一瞬、常に生きる意味を問われている。

その答えを出し続けるには、自分がいかに崇高で、この宇宙の中で二度とありようもないかけがえのない存在か、まずはこの本を読み、それらを自分で認識することから始まるのではないでしょうか。

必ずやあなた自身の中にその答えはあるのだから。

筆者の他著書↓
「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)
(1999/10)
ヴィクトール・E. フランクル

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苦悩する人間 (フランクル・コレクション)苦悩する人間 (フランクル・コレクション)
(2004/10)
ヴィクトール・E. フランクル

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制約されざる人間 (フランクル・コレクション)制約されざる人間 (フランクル・コレクション)
(2000/07)
ヴィクトール・E. フランクル

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