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『納棺夫日記』青木 新門 全てはみぞれのように渾然一体なもの

昨日は3月だというのに、東京ではみぞれが降りましたね。

外ではみぞれが降りしきるそんな中、映画『おくりびと』の原作となったこちらの一冊を読みました(映画の感想はこちらに)。

私が手に取った本の帯には「本木雅弘さんが、この『納棺夫日記』に感動して、映画「おくりびと」が誕生しました。」という一文。本木さんが27歳のころインドに行かれたのと、この本に出合ったことで死生観が変わり、それから15年間、ずっと「おくりびと」の構想を抱いていたそうです。

そして何の偶然か、死生とはこの「みぞれ」にも似たものなのかという驚きがありました。

納棺夫日記 (文春文庫)納棺夫日記 (文春文庫)
(1996/07)
青木 新門

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西洋の思想では、生か死であって〈生死〉というとらえ方はない。
その点東洋の思想、特に仏教は、生死を一体としてとらえてきている。生と死の関係をみぞれの中の雨と雪の関係のようにとらえるなら、〈生死一如〉=〈みぞれ〉であって、雨と雪と分けるとみぞれでなくなるというとらえ方である。

人の一生は永遠の中のほんの一瞬のようでもあり、しかしそこには確実に時間が介在しています。みぞれを一瞬一瞬フィルムのコマのように静止させて捉えるなら雪であったり、雨であったり、水であったりするわけですが、それを時間の中へ入れると間断なく変化してゆく状態となります。こうした変化を「無常」つまり「常なるものは無い」というようにとらえてきました。

文中に宮沢賢治の「永訣の朝」という詩が引用されています。

確か小学生のころにも教科書に載っていた詩ですが、改めてこの詩を読んでみて、その賢治の想いに胸を打たれてしまいます。。。ここには死にゆく妹と、生きている自分との対比ではなく、限りなく死の近くまで移動し寄り添って生も死もなくただただ、床に付す妹とも、降りしきるみぞれとも、陰惨な雲とも、それこそ銀河や太陽とも、すべてと一体になろうとする賢治の姿があります。

生と死はひとつ。それは雨と雪が混ざったみぞれのように…。
そして死は闇ではなくひかり。

人間は「無常」と「死」という視点に立てばただ一つの例外なく全てが平等で、がかけがえのない存在である。そんな存在である人間が、もし死生から「生」だけを切り取ってさもそれが永遠であるかのように思いこんでしまおうとすれば、それはかけがえのない一生をただ「死」を恐れて費やすことになる。だから「死」をまっすぐに見つめ、「生」を考える。 

映画『おくりびと』を観て、そしてこの本を読んだ一連の流れで、別に悟りを開いたわけでもなんでもないんですが、自分のずっとずっと心の奥底にあった死に対する恐怖が少し溶けてきたというか、ひかりが差し込んだというか、そんな感覚を持っています。そして生きていることの素晴らしさを実感します。そのような機会を与えてくれた本木雅弘さんや青木新門さん等の想いに感謝。

この本には宗教、仏教、死後の世界の思想など、深い哲学的な表現が多々出てくるので今の私にはあまり理解が至らないところも多かったように感じますが、ただこれは今まで死を遠ざけて蓋をして、みえないように生きてきたのだから当然と言えば当然。これから自分なりの死生観を持ち行動してけばいいのだと感じます。ぜひご一読あれ。

ちなみに現在文庫本ランキング「納棺夫日記」が1位で、「おくりびと」の原作↓が2位の、ワンツーフィニッシュ!!
おくりびと (小学館文庫)おくりびと (小学館文庫)
(2008/07/04)
百瀬 しのぶ

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