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ラップも評論も、感動の自己分析です-『二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~』

もし仮にラッパーが、自分の内面から湧き出てくるラップじゃなくて、「こんなん言っときゃ売れるっしょ」みたいな「提灯ラップ」してたら、そんなの聴きたくないよねぇ。やっぱり自分に正直で自由に表現しているラップが聴きたいわな。

二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~ (ele‐king books)二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~ (ele‐king books)
(2013/01/18)
二木信

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こちらの一冊は2000年初頭からヒップホップを中心とした音楽ライターとして活躍している筆者の、これまでの原稿やアーティストへのインタビュー、そして新たに書き下ろした原稿・インタビュー、レビューなどで構成された評論集。

まず何と言ってもタイトルが最高!CLASHの名盤『London Colling』に収録の、おとぼけ哀愁レゲエ炸裂な『Rudie Can't Fail』からの引用。よくぞこれを持ってきてくれましたなと!もはやタイトルだけで「ヨッシャいっちょ読んだる!」と鼻息荒く勝手にコミットした次第。



で、最初に言っちゃうと、ヒップホップ門外漢の人にとっては正直ちょっととっつきづらいかもしれない。自分も90年代ジャパニーズヒップホップなら友人の影響でかろうじてかじってるけど、2000年代になるともう全く追っかけてないから、タイトルには喰いついたけど目次なんかをパラパラ見てたら正直「自分との接点が見つけづらいかもなぁ…」なんて思って読み始めたわけ。

でも結果的にものすんごいおもしろく読めた!というかむしろ相当引き込まれて、読後はお腹いっぱいで大満足。なんでそんなことになったかというのを自己分析しちゃうと、どうも2つ理由があるのかなぁと。

1つは超個人的な理由だけど、筆者が自分と同じ81年生まれで完全に同学年であるということ。それに加えて本書に登場するラッパーたち、例えば鎮座ドープネス、環ROYなんかも81年生まれでこれまた完全に同学年。田我流も82年生まれだし、他にも比較的年代が近いラッパー達が多く登場するんだよね。日本のヒップホップといえば90年代のシーンを連想しがちだけど、本書ではそのあたりを綺麗にスル―して、2000年代の新しいヒップホップに焦点を当ててるんだよね。

なので読んでるうちに、自分とは全く違う分野の全く違う世界を生きている筆者やラッパー達に対して勝手に連帯感のようなものが芽生えてきちゃうわけ。自分と同じ年頃の彼らがそれぞれの場所でどのようなことを考えてどのように生きてきたかのか。それがあたかも自分の仮の姿であり、もう一つの自分の人生のように思えてきちゃう。そんな具合に勝手に当事者のようにリアリティを実感しながら読んだ。ほんとまぁ勝手で図々しいんだけどね。

2つめは、筆者の文章がそのままラップとして読めちゃうってこと。ヒップホップってラップする人の属性を選ばないでしょ。むしろマイノリティであるほどに輝きを増していく。日本に階級はないけれど、田舎だとか地方だとか、あるいは犯罪だとか貧困だとか、そうした一見社会の端っこに追いやられているものや社会の暗部として認識されがちな場所から、ミクロな視点でラップすることが普遍性を獲得していく構造を持っていると思うんだよね。あと逆に言えば、一般的な社会で好ましいとはされていない生き方を許容する側面も持っている。

そういう視点で言えば、ナイトクラブや小規模のオーガニックフェス、サウンド・デモのような、一般の多くの人が居合わせないアウトローな場所で、何が起きているのか?何を感じたのか?何を考えたのか?を、ミクロな視点で時にほだされたように熱く、時に冷静沈着な科学者のように分析的にことばを紡ぐ筆者の文章は、これもまた一つのラップだと言えちゃう。それこそ(誤解を恐れずに言うと)まだまだ一般的には知名度や市民権を獲得しているとは言いえない若手ラッパー達、あるいは「ヒップホップ」というジャンルを取り巻く雑多な文化そのものについて、自由に評論することそれ自体がヒップホップ的なわけで。

本書には雑誌のレビューで筆者が環ROYのアルバムを酷評したとして、環ROY本人から「提灯記事を書いてよ」と反論を受けた議論も収録されてるのね。これ、とても興味深く読んだんだけど、やっぱり筆者の言うように「音楽を聴いて何を言おうが書こうが自由」な文化がおれは好きだなと感じた。当たり障りのない提灯記事なんて読んでる時間がもったいないじゃん。この本のように正直な意見や感想が記された記事や、半ば妄想で突っ走っちゃってるような記事こそが読みたいよ。

孫引きになっちゃうけど、本書から、筆者が敬愛するアングラ・カルチャー&ジャズの評論家・平岡正明さんの言葉。

楽譜の分析やら音楽家の自己解説(コメント)の紹介を音楽批評ととりちがえてはいけない。音楽評論とは感動の自己分析です。曲に身をゆだね、心に浮かぶ印象、快美感、理論などがフツフツと断片的に、連続的にやってくるものを、もう一つ外側からのぞきこむ作業である。

これは「文章を書く」「評論する」という行為だけでなく、表現そのものの意味を問うてるとも思うんだけどね。

というわけでヒップホップ好きはもちろん、ヒップホップの門外漢でも、自分が住んでる世界とは違う少々不道徳で野放図でファンキーな世界を覗いてみたい人、あるいは「文章を書く」とか「表現の自由」みたいなことに興味感心が強い人はかなりおもしろく読めると思うよ~!

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仮面の下に潜む沈黙の宇宙から…‐『藝人春秋』水道橋博士

読書が好きで、くる日もくる日も飽きずに本を読んでいると、ごくまれに、読み終えた瞬間、自分の全感受能力を動員してもその実感を処理しきれずに言葉を失ってしまう本に出会うことがある。本書もその一つとなった。

読んでる途中から言葉を失ってしまい、ただ「沈黙の宇宙」に漂い、放心するのみ。そして裏表紙を閉じると同時に、沈黙のまま手にしている本を胸の内に抱きしめたくなってしまう。沈黙の宇宙空間に、決して言葉にはできないが確かに存在している何かと共に…。

藝人春秋藝人春秋
(2012/12/06)
水道橋博士

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藝人春愁 (水道橋博士 著)

本書は数多の巨星・名人・怪人芸人たち15名の、その濃厚すぎる生き様を、浅草キッドの水道橋博士が小説のように描写した一冊である。主な登場人物はそのまんま東、甲本ヒロト、草野仁、石倉三郎、古館伊知郎、三又又三、ホリエモン、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、爆笑問題(太田光)、松本人志、稲川淳二。そして通奏低音として、常にビートたけしの存在が色濃く意識される。

本書を読み終えて、本当にただ圧倒され言葉を失ってしまった。一言たりとも感想めいたものをつぶやくことができない。仮に言葉をにできたとしても「すごい…」とか「ヤバい…」とか、表面的なものしか出てこなかっただろう。とてつもないものに出会うと人間は真っ先に言葉を失うらしい。

しかし、しばらく時間が経過すると、冒頭から書いてきたことと矛盾するようだが、その沈黙の中から無理やりにでも語るべき言葉を引き出そうとしている自分に気づく。そして今まさにこうして文章を綴ろうとする衝動に駆られてしまうのだ。

なぜそのような衝動に駆られるのか?その理由はあえて後述することにする。

さて、本書に登場する15名の芸人に共通するもの。それはみな「雄弁」であるということ。それぞれが時に激しく時に穏やかに、時に大胆に時に不敵に、ある種の突き抜けた強度を具えた、逆説的で哲学的な自らの言葉を雄弁に響かせてゆく。

そして芸人達の雄弁な言葉を綴る筆者の言葉もまた雄弁。アナグラムや押韻、メタファーを張り巡らせ、ひとつのセンテンスのなかに幾重にも意味が折り重なり、それらが次々と関係性を持って連鎖していく。その語り部の濃厚な言葉から、語られるそれぞれの芸人がもつ十色が匂い立つかのように浮かび上がってくる。

このようにして、語られる芸人と語り手の濃厚で雄弁な言葉が、シンクロしグルーブし激流となって読み手を襲うのだ。

仮面の下に潜む素顔、それは沈黙の宇宙

本書はしかし、その「雄弁な言葉」だけで構成されているわけではない。むしろその「雄弁な言葉」とは、本書を構成する要素のほんの一部でしかない。

どういうことか?それは綴られた言葉が雄弁かつ濃厚であるが故に、逆説的に、人間という存在が抱える「言葉にならない・言葉にできない」深淵で崇高な何かを照射しているからである。「雄弁な言葉」の字面から、行間から、人間の持つ深遠な宇宙が染み出し、次第に顔を覗かせてくるのだ。

「雄弁な言葉」とは「言葉にならないもの」のほんの一部を一つの表情として外部に知覚させる仮面のことなのだ。つまり芸である。その芸の仮面の下には必ず見えない本当の素顔が隠されている。その素顔こそが「沈黙の宇宙」にある「言葉にできない何か」であり、人間のもつ深淵さなのだ。

本来であれば、芸人とは自らの素顔をさらけ出すことはない。どんな時でも素顔を隠し、人を笑わせなければいけない世界だからだ。

芸能界は親が死んでもトチれない世界なんだよ。だから辛抱だ。辛抱ってのは、辛さを抱きしめるってことだからな。今はひとりで抱きしめろよ!―石倉三郎

芸能人っていうのは、身内に不幸があっても笑ってなきゃならない。陰でどれだけ泣いても苦しくても、テレビでは『はいどうも~』って笑わせなきゃならない。もう、やかましいぐらいよくしゃべって、『あんた明るいねぇ』なんて言われていましたからね。―稲川淳二

しかし、筆者によってその芸という名の仮面が精緻に描写されると、仮面の綻びやズレが段々と露わになってくる。その隙間から漏れ出てくるものが読み手を鷲掴みにし、強引に「沈黙の宇宙」へと放り投げるのである。

自分のことになるが、名作『キン肉マン』にはたくさんの印象的なシーンがある。その中でも特にロビンマスクの仮面が剥奪され、暗幕で覆われた顔面に鋭く光る眼光が露わになったシーンは、強烈にドキリとさせられた。闘いと友情を、熱さとコミカルさで描くのが基本トーンの作品であったが、ロビンマスクがマスクを剥奪されるシーンは一種独特の深みのような側面を『キン肉マン』にもたらした。子どもながらに侵してはいけない神聖な領域を侵してしまったかのような罪悪感にも近い情動を感じてしまったことを覚えている。

また、小学生の頃にワールドプロレスリング中継で流されていたザ・グレート・ムタVSスーパーストロング・マシンの一戦も忘れられない。真夏のよみうりランドの野外のリングで行われたこの一戦。試合終盤に突如としてムタが非情にもマシンのマスクを引き剥がしにかかる。すぐさまマシン軍団によってタオルが被せられるまでのほんの数秒の出来事だったが、ムタの毒切りによって緑色に変色した素顔のマシンの顔面に妖しく光る眼光をカメラが確かに捕えたのだ。この一戦にも、やはり見てはいけないものを見てしまった罪悪感に似た衝撃を受け、掻き乱されるほどに魅了された。

蛇足ながらに言及しておくと、このよみうりランドの一戦は新日ファンなら誰もが知る「オマエ平田だろ!」事件よりも後の出来事であったが、当時小学生の自分には、そのような文脈的な知識は幸いと言っていいのか、まだ持ち合わせていなかった。さらにいえば「しょっぱい試合してスイマセン」事件よりも前の出来事である。当時の小学生はまだ、スーパーストロング・マシンとは「戦慄の殺人魔神」であるという幻想の中にあった。それだけにこの一戦は、冷酷で不気味な笑みを湛えたマスクの裏側の闇の中に、陰影のある表情が潜んでいることを小学生の脳裏に強烈に妬きつけたのだった。

これらの体験と同様に、芸という名の仮面の隙間から、本人の素顔、つまり「沈黙の宇宙」が漏れ出し、染み出してくることによって、遂には自らまでも「沈黙の宇宙」に放り出されてしまう。それこそがこの本が持つ超一流の芸がなせる技なのである。

「沈黙の宇宙」と「死者の記憶」

先ほどから何度も繰り返している「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」。それはいったい何か?内田樹氏の『街場の文体論』に「言葉にならないもの」についてこのような一節がある。

僕らの身体の中心にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものは、かたちあるものではない。それは言葉にならない響きや波動や震えとか、そういうような非言語的な形態で、死者たちから生者へと手渡される。言葉というのは、「言葉にならないもの」をいわば母胎として、そこから生成してくる。それを「ソウル」と言ってもいいし、「生身」と言ってもいいと僕は思います。そこから発してくる言葉だけがほんとに深いところで人を揺さぶる。

街場の文体論街場の文体論
(2012/07/14)
内田樹

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「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」は、人を揺さぶるような言葉や芸が生成される母胎のようなもの…。

またもっと踏み込むと、「沈黙の宇宙」はあの世・あちら側の世界のことであり、それは「死」に似ている。言葉や芸という、他人が知覚できる表現を仮に「生」にたとえるなら、隣り合わせにある「沈黙の宇宙」は「死」だ。「死」は絶対的な沈黙である。

そして死者が持っていた記憶は「沈黙の宇宙」に残る。偉大な芸人達は、その「沈黙の宇宙」で死者の記憶とつながっていて、奥底で常にその存在を確信し、肯定・受容して、言葉や笑いや歌へと昇華させているのではないか。『街場の文体論』からもう一つ。

みなさん一人一人のなかにも、それぞれが属している集団や共同体のソウル、あるいは親たちからのソウルが「メモリーズ」として輻輳している。見知らぬ他者の、死者たちの記憶がみなさんの中でざわめいている。死者たちの記憶は消えない。ある種の波動のようなかたちで残っていて、それが僕たちの「ソウル」をかたちづくり、そこから他者に届く言葉が不断に生成している。

死者は、生者の知らない記憶を持ちさる。しかし、その記憶は何らかの形で伝達される。誰にも教えられるわけでもなく普段何気なく取っている行動から、ふと亡くなった祖父や祖母や恩師の存在(というよりも質感や匂いといったほうが良いか…)を丸ごと感じてしまうことがある。そんなとき、自分は自分だけで構成されているわけではく、過去の死者たちの記憶のなかで、また新たな記憶を生きていることを実感するのだ。

おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。―まえがき


芸人達の気持ちをコピーする

さて、私が本書を読み終えて言葉を失いながら、それでもこうして稚拙ながらに言葉を綴る理由がおわかり頂けたでしょうか。本書で紹介されている15名の芸人たちと筆者は、意識的か無意識的かの違いこそあれど、常に「沈黙の宇宙」に身を浸し、そこから「雄弁な言葉」や「芸」を生成している。つまりはその〝気持ち〟をコピーしたかったのだ。

「芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、まず自分の好きな表現スタイルを模倣しようとするじゃん。『アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい』って思っちゃもうダメなんだよぉ。アイツがあの音を鳴らした時の〝気持ち〟をコピーするんだよ。衝動を。そうやっていくとオリジナルで一生現役でいられるんだぁ。音をコピーしたり再現したりだと形骸化するだけでさ。もし、その衝動がなくなった時は終わりなんだぁ」―甲本ヒロト

「沈黙の宇宙」から言葉や芸を生成することで、ほんの一瞬でも、「きりもみしながら音速で飛行するかもめのジョナサン」のように、あるいは「金星のパイロンをかすめて輝きながら飛び去る石」になれるのかもしれない。なんてことを思うんだなぁ。

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新しいキャリアのつくりかた!?‐『新しい市場のつくりかた』三宅 秀道

かってブルーハーツが「写真には写らない美しさがある」「劣等生で十分だ」と歌って価値の反転を起こしてくれたような優しさがこの本には、ある。なんじゃそら?と思われるかもしれないけど、自分はこの本読んでてちょっと抱きしめたくなるほどの優しさを感じちゃいました~。

新しい市場のつくりかた新しい市場のつくりかた
(2012/10/12)
三宅 秀道

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本書はその名のとおり、変化の激しい現在、今ある技術をただ上書きしていくのではなく、いかに問題を発明しこれまでにないライフスタイルを提案して市場を作るか?ということについて書かれた一冊です。こうして書くと「えぇ…ガチガチのびじねすぼんじゃんw」と思われるかもしれないけど、本書に関しては良い意味で高尚さが全くなく、様々な余談に寄り道しながら、肩の力の抜けたくだけた文章で書かれたとても好感を持てる一冊です。

で、新商品企画を行う上で「文化開発」「問題発明」「文化振興財団的企業」といった非常に重要な概念が出てくるのですが、その辺の切り口、いわば本書のキモの部分は他のブログなんかに書かれてるだろうし、もっといえば本書を読んだ方が理解が早いと思うので、ぜひ直接あたってもらいたいです。ここではいくつかの引用にとどめることにします。

技術の話の大半というのは、いわば「市場の成長拡大」にまつわる話であって、そうなる前の段階をしっかりと見なければいけません。本当に市場が創造される最初の最初は、生活をこんなふうに変化させたい、という文化の話であり、企業の職分でいうと技術開発ではなく、企画にまつわる話になります。

「文化振興財団的企業」を目指せ
必ずしも資本力や技術力に恵まれていない企業でも、それまでの世の中になかった新しい文化習慣を構想し、提案し、普及させることで、人々がそれまで消費していなかったものを消費するように社会をつくり変え、その変化の先頭に立つことで、文化的優位を構築し、その上に事業を展開するという手法です。

社会を変える大局観
「商品企画」の戦略とは、つまりは新企画で社会を変えるぐらいの行為です。そのことはつまり、いっそ新しい社会をつくる、それだけのビジョンを持っておく、ということです。(略)読者のみなさんの身の回りにあるどんな消費財も、モノであれサービスであれ、そもそもその商品のコンセプトから創造された事前と事後を比較すれば、社会のライフスタイルのありようそのものを変えていることが理解できるはずです。
どうせ社会を変えてしまうのが新企画商品であるならば、どのように社会が変わればより良いのか、ビジョンがないようでは無責任である、それだけの可能性を持った行為が、商品を企画するという行為であると思います。

で、そういうこととは別に、自分が1つだけこの本について言及しておきたいのは、冒頭でも触れたとおり、この本、ムチャクチャ優しい、ってことです!

どういうことかというと、商品開発・サービス開発・事業開発を本当にゼロから起こしていく場合、その役割を担う人は本質的に組織に属していながらアウトサイダーだと思うんです。そのアウトサイダーの立場の人に対して絶対的に受容してくれているようなスタンスが根底にあるんですよ。

今までと同じ環境の中に没入していては新しい問題は見えてこないし、それに対する解決策を構築する際に組み合わせるアイデアも得られない。だから新商品企画に携わる人はアウトサイダー的に、本書でも触れられているように「妙に組織的でないポジション」に居て、多様な現場に足を運び、社内のリソースを最大限に活かしながら従来の固定概念から離れて解決策を組み立てていく必要があるんです。

でも、その「妙に組織的でないポジション」に居るアウトサイダーとは、周囲から非常に見えづらく理解されづらい立場でもあるんですよね。現状の組織の中ではまだまだこの人たちがカポッとハマる受け皿・くぼみがなく、どうも浮ついたマイノリティな存在になりがちだと思うんです。

例えば従来の「仕事をしてる」イメージって、PCに向かってカチャカチャ何か入力してるだとか、ひっきりなしに電話して発注したり指示してるだとか、機械に向かって作業してるだとか、いかにも汗水たらして必死に手足を動かしている誰が見えてもわかる姿をもって仕事してるって認識されがちじゃないですか。

でもアウトサイダー的に新商品企画・開発に携わってる人は、お客さんのところばっかり行って本筋とあんまり関係ない話しをやたらしてるだとか、本屋で長時間ウロウロしてるだとか、一人でボーっと考え事してるだとか、傍から見て「全然仕事してねぇじゃねぇか!」って突っ込まれそうなことばっかりやってるんですよ。あと、突拍子もないこと言い出して「なに言ってんだコイツは!」って怒られたりとか。でも本人は社会のために、会社のために、頭の中で真剣に必死に汗水たらしながら、ときにアナロジカルに、ときにロジカルに、今後を見据えてビジョンとスキームを構築しようとしている…。ムダに見えることでも、本人はムダなことなんて何一つないと真剣に考えて取り組んでいる…。ただ役割上、それが短期的な成果として見えづらいだけなんです…。

※もちろん前者がダメで後者が尊いと言いたいわけでは全くありません。どの仕事にもその役割があり、その役割に真剣に取り組むことはどれも等しく尊いです。

本書で取り上げられる事例で出てくる人は「トップ自身か、トップがその裁量に正当性を認めた担当者」なので、ある程度アウトサイダーとして社内から認識されてる人だと思うんですけど、それ以外のほとんどの企業で実際にこうした立場にいる人は、周囲にあまり理解されないまま、個々の環境の中でひたすら孤独な闘いを強いられているケースが多いんじゃないかと推測します。

そういう孤独なアウトサイダー達にとって「これでいいんだよな!」と鼓舞されるような、自分を全肯定されるような、クサイ言い方すれば勇気や活力がもらえるような一冊ですよ、ほんとに。

誰かが家元をやらなきゃ!
「これから市場での競争に勝つ評価尺度には、新しい別の要因が入ってくるんじゃない?」と技術者たちの問題設定に水を差すことを誰かがしなくてはなりません。そして、その「誰か」は、広く社会を見据えていなければならないのです。

新しい価値を開発するために、社会に目を向け、観察を働かせる、そのとき必要となるのは、どんな観察対象からも何かしらの洞察を汲み取ろうとする姿勢であり、その基盤には「どんな人生にも意味がある」という意識、この感覚ではないかと思うのです。

もっといえば別に新商品企画の担当者だけでなく、以下のような感覚を持ってる人、組織の中で肩身の狭い思いをしている人にとっても救われる1冊なんじゃないかな?

・アイデアをいくら提案しても決定権を持つ目上の人間と絶望的に話しが通じないと感じている人
・「アイデアはいいけどそれにおぼれるな!」とか、よくわかんない怒られ方しがちな人
・花形部署とは程遠い、辺境の部署にいる人
・組織に属しながらも完全にそこに没入できないような感覚を持ってる人
・ひとつのことをひたすら掘り下げていくよりも、分野の壁を越えて全体を捉えることに志向性を持っている人

混沌のもつ可能性
自分と違う考えの人、自分と立場が違う人、自分と違う欲求を持っている人、自分と違う技術や経営資源を持っている人と、他者と他者として真っ向から交流し情報を取ってきてこそ、未整理の混沌の中から良い偶然を必然として発生させることができる。それを社内に持って帰ってきて、取りこんで、新しい市場創造につなげる、そういう生き方が確かにあるのです。

というわけで、この本自体が実は「新商品企画の本質の理解されなさ」という問題発明をし、「文化開発」という今まで見えなかった定義を提示して、新しい仕事のあり方や新しい文化を創ろうとする、本書で述べている概念の事例そのものとなるような心意気と優しさに満ちた一冊なんです!「新しい市場のつくりかた」=「新しいキャリアのつくりかた」としても読めちゃうよ。ぜひともご一読を!

創造の原初的な体験-『秘密基地の作り方』尾方孝弘

新年明けましておめでとうございます~!といってもこの記事は新年云々とは全く関係がありません。なんせ去年読んだ本の紹介ですから。

秘密基地の作り方秘密基地の作り方
(2012/05/12)
尾方孝弘

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本書『秘密基地の作り方』は、自我が芽生える頃の子どもが自分たちの空間を得るために友達同士で取り組む、特にオトコのコにとってはほぼ避けて通れない遊び「秘密基地作り」の場所選びから材料、作り方、そして遊び方までを解説した一冊です。のりたけさんの最高にユーモラスなイラストもマジ最高。

この本いいんですよ~。オトコのコなら誰でも持ってる幼い頃の秘密基地にまつわる思い出が蘇ってきてニンマリしちゃうし、実はその体験は創造の原初的な体験だったってことにも気づけちゃう。

それに秘密基地の「作り方」についての本なんだけど、別にゼロから作る場合だけでなく、良い場所を見つけて隠れてみたり、すでに誰かが作った秘密基地を発見してのっとるだとか、そういうとこまで「秘密基地の作り方」に含めてるのがいいんですよねぇ。

自分も小学生の頃、学校の裏にある山の中に、子どもが4人入ったらいっぱいになるぐらいの大きさの、誰かが麻で作ったイイ感じの小屋を発見したことがあったんです。しばらくの間誰も使ってなかったっぽくって若干ボロくなっていて、中は湿気がものすごかったんだけど、気にしないで放課後に友人たちを呼んできて、そこにもぐりこんでスルメだとか麦チョコだとか、家から持参した食料を食べながら喋ってたんです。しばらく夢中で喋ってて、ふと気がつくと、な~んかガサガサ物音がする…。あれ…おかしいぞ…と思って、懐中電灯で内壁を照らすと、インディ・ジョーンズよろしく蜘蛛やらナメクジやら何やらの生物達が大量に隙間もないぐらいビチーッと張り付いてやがるっ!!!それで全員サブイボたてながらうわぁぁぁって一目散に逃げ出したりとか………あったねぇ。

あと上級生が作ったであろう秘密基地を発見して、我が物顔でそこで遊んでたら、その上級生達がやってきてかなりマジで追いかけられたりとか。捕まったら確実にシメられるんで、もう泣きそうになりながらうわぁぁぁって全力で家に逃げ帰ったりとか………あったねぇ。

そういう忘れかけてた細かいディテールの思い出が蘇ってくるのもおもしろいし、ゼロから良い場所を発見してみんなでダンボールもらいに行って資材を運び込み、夢中になってせっせと王道の秘密基地作りをしてた思い出も蘇ってくる。

そういう子どもの頃の創作の楽しさを最近味わえてるかなぁ、と大人がふと自問自答したりする本としてもいいし、自分の子どもがそういう遊びを始めたときに存分に理解してあげられるようになるのもこの本の良さです。

最近、娘っことすぐ近くの公園に遊びに行ったんですが、その公園には、中心にでっかい樹が立っていて、その樹をぐるっと垣根が取り囲んでるんです。で、何度も行ってたのに全然気づかなかったんだけど、その垣根の中にほんと子どもがやっと一人進入できるぐらいの小さなトンネルが通ってることに、この間初めて気づいたのね。で、案の定、娘っこはそのトンネルの中を四つん這いになってどんどん進んでいくわけ。

それ見てて、あぁ、こんなふうに物理的に大人が入っていけない空間ってのがこの世には存在するのかぁ~、と当たり前のことに気づいたんです。そして子どもはその大人が入っていけない空間、等身大の空間ってのが大好きなんだよね。子どもだけの空間を縦横無尽に行き来する娘っこを見てて、できるだけその内側から見える風景や、いま感じている気持ちを忘れないでいて欲しいなと思った。

秘密基地を作るということは、なんの面白味もないように見える景色の中のちょっとしたスキマを見つけ出してその中に入り込み、今度はそのスキマの側から見慣れた景色を見なおすということなのです。身の回りにある世界を自分の(想像)力だけで作りかえること、という風に言い換えることもできるでしょう。それは、私たちが生きていく上でとても大切な力ではないでしょうか。それさえあれば、たとえこの社会の仕組みが完全に壊れてしまうようなことがあっても、完全に絶望する必要はないのですから。

勉強も大事だけどさ、やっぱり遊びを通じて何かを発見したり作ったりするおもしろさ、この感覚ってホント一生モンなんじゃないでしょうか~。それなのに、同時に忘れていってしまいやすいものでもあるんですよね~。この本はほんと大人にこそぜひ読んでもらいたいなぁ。

どんどん反射させようぜ。輝きを。-『ロックンロールが降ってきた日』秋元美乃

ロックンロールに首根っこ掴まれちゃった人なら、誰もが体験しているそれぞれの「ロックンロールが降ってきた日」。それが鮮明に胸に蘇ってきて、しかもその日のその瞬間って、自分にとってとても大切な何かだったんだって気づけるめっちゃいい本。もはや抱きしめたい。

ロックンロールが降ってきた日 (P-Vine Books)ロックンロールが降ってきた日 (P-Vine Books)
(2012/04/20)
秋元美乃

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ヒロト、マーシーをはじめ、チバユウスケやベンジーや怒髪天の増子直純、ACIDMANの大木伸夫、それにムッシュかまやつ、仲井戸麗市などのレジェンドから、BAWDIESのROYなんかの若手に至るまで、15名のロックンローラーが、初めてロックに出会った日のことを振り返るインタビュー集。もうね、読んでるだけで嬉しくなっちゃうよ。

ロックンローラーたちのパーソナルで根源的な体験を読んでると、不思議と今度は自分のパーソナルな体験がよみがえってくるわけ。

自分のこと言っちゃうと、例えばこの本で語られてるヒロトにとってのマンフレッドマンの『ドゥ・ワ・ディディ・ディディ』や、マーシーにとってのビートルズの『ツイスト・アンド・シャウト』が、自分にとってはブルーハーツの『終わらない歌』だったのね。

小2のとき。近所のよく遊んでもらってた3つ年上の兄ちゃんの家で、ある日「これかっけーんだよ。聴いてみろよ」ってブルーハーツの1stかけてもらったんだよね。その兄ちゃんが選曲した『終わらない歌』のイントロが鳴って、歌になだれ込んだ瞬間「ん?……………ぅうわぁぁぁぁぁ~!」ってなった。もうね「しびれた」なんて言葉じゃ足りない。ドッカーンって稲妻走ったもん。この瞬間すべてがむき出しになったよ。

3rdアルバムの『TRAIN-TRAIN』が出たすぐ後ぐらいだったから、その日以降もその人の家にいくたんびに、2ndアルバムや3rdなんかも聴かせてもらって、もうかかる曲かかる曲、全部に持ってかれた。サウンドから声から詞からジャケットの4人の風貌まで、もう全てにドキドキした。

それまで音楽聴くったって戦隊もののテーマソングやらドラえもんとかのアニメの主題歌とかそんなんばっかりだったのね。なのにその日からブルーハーツの音楽がぜんぜん頭から離れなくなっちゃった。当時はまだCDデッキ持ってなかったから、1stアルバムのカセットテープを親に頼み込んで買ってもらって、まじで擦り切れるほど聴いた。ポータブル型のちゃっちいカセットデッキだったから寝るときも枕元に置いてアホみたいに何度も再生してた。

あと何かのTV番組で初めて動いてるブルーハーツ観たときの衝撃も半端じゃなかったなぁ…。ヒロトの動き、「どうやら今おれは、みちゃいけいないもんみてるぞ…」って思いつつ、全くもって目が離せないの。ロックンロールが鳴ってるときの理屈抜きの衝動がまんま表出しちゃってるあの動きね。

そういうさ、ロックンロールに首根っこ掴まれた人なら、誰もが体験しているロックンロールが降ってきた日その瞬間や、ロックンロールにかぶれてイタイぐらいに突っ走っちゃう青臭い日々を如実に思い起こさせてくれるんだよ。そしてそれがものすごぉく大切な瞬間だったってことを気づかされる。まぁイタイっつうのは今でもそれはあんまり変わってないともいえるんだけどさ。

そりゃおれはミュージシャンでもなんでもないんだけど、このときに味わった何かとんでもないあの「感じ」を今でも味わいたくて生きている。それは別に音楽だけじゃなく、生きている中で出会う未知の体験とか誰かの作品とか自然とか、そんなものの中にも間違いなく存在しているもんねぇ。

その理屈じゃない「感じ」を嗅ぎ付ける「感性」を得られたのはロックンロールのおかげだし、その意味じゃ、自分もまたロックンロールによって人生変えられたんだと、(全く大した人生じゃないけども…)大仰に言っちゃうよ。というか、みんなそうなんだよきっと。

ロックンロールっていうのは頭で考えるんではなくて、感じることの喜びを思い出させる、もしくはそれを気付かせてくれる音楽だと思うんですよね。 ROY

で、最後に我らが甲本ヒロトのインタビューにふれないわけにはいかない。「輝きを反射させる」ってことについて語ってて、実はこの話し、前に雑誌の『BRUTUS』に載ってた対談でも語ってたことなのね。このブログのタイトル「Today's Reflection」って、その『BRUTUS』を読んでヒロトが語ってた「反射」を「Reflection」にして拝借してるんだよね。(ここにそのこと書いてるんだけど→ブログタイトル「Today's Reflection」に変更します

その『BRUTUS』の内容よりも、より力強く直接的なメッセージになってるので、もはや引用しないわけにはいかない。

月や星は輝いてないよね?星って輝いてないよね。ロックンロールの星たちも輝いてるんじゃなくて反射しているんだ。光っているのは太陽じゃないか。星が光ってるんじゃなくて、太陽が光ってる。(中略)今この本を読んでいたり、今誰かを「カッコいいな」と思ってる人たちも、その輝きを今受けています。だから反射させてみてください。あなたはきっと輝く。自分が感動したっていうことは、人を感動させる力を持ったという証拠だから。勇気を持って楽しく生きてほしい。だから「楽しいな」と思ったらもう勝ちだよ。だからどんどん反射させようぜ。輝きを。 甲本ヒロト

「輝きを反射させる」「感動を跳ね返す」。もはや、これ一生のテーマにしたっていいかもなぁ。。。

というわけで、ロックンロール好きなら抱きしめたくなること間違いなしの一冊ですよ~。輝きを受けちゃいなよ~。

関連エントリー

ブログタイトル「Today's Reflection」に変更します

世の中とプロレスする甲本ヒロト-『KAMINOGE [かみのげ] vol.1』

『Gスピリッツ SPECIAL EDITION Vol.1 アントニオ猪木』 猪木ではなく、甲本ヒロト研究一級資料

THE HIGH-LOWSの『十四才』とリチャード・バックの『かもめのジョナサン』について思ふ
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