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好きなものが苦痛になる倒錯した状況に追い詰める、体罰。

最近のニュースから体罰についてちょっと考えてたら、色々ぶわ~っと想起してくるものがあってね。それでルサンチマン成分濃いめの、めんどくさい感じのツィートを連続してTwitter上に流したんだけど、これ、結構自分にとってトラウマ級にデカいトピックスだぞ…と思い始めたのと、まだ言い足りんってことがあるな~と思えてきたので、改めてブログにも書いてみることにした。

高校生の頃は、それこそ全国に出るか出ないかぐらいの高校のバスケ部だったんだけど、もう笑っちゃうぐらいにバンバン殴られたんだよなぁ。
「いついつの試合で殴られたときに舞った汗しぶきに虹が見えてめっちゃキレイだった!」
とか今でも自虐ネタで話題にするぐらいにw

ミスすると体罰が待ってる環境だとさ、萎縮しちゃって本来その人が持ってる力が出せなくなっちゃうんだよね。だって誰だって殴られたかないから集中できなくなっちゃうじゃんそんなもん。フロー状態に持ってくには専念と集中が必要なんだから。

それで、萎縮して思い切ったプレーができずにミスする→殴られる→萎縮する…っていう負のループに陥ることになる。もうこうなっちゃうとプレーしてて楽しいもクソもないよね。

考えてもみてよ。本来バスケが好きで好きで仕方なくてやってたのに、そのバスケが段々好きなのかどうかわからなくなり、そのうち苦痛になっていく。本来バスケを通じて自分を解放したい、もっと自分を高めたいと思っていたのに、そのうちそんな純粋な想いによってむしろ無力感と絶望感で追い詰められていく。こういう倒錯した状況に貶められるんだよ。何これ?理不尽そのものじゃん。

自分はたまたま、殴られるという状況そのものをユーモアに転嫁してくれる仲間がいたり、ハイスタちゃんの『ANGRY FIST』をひたすら聴きながら、顧問に怒りの鉄拳喰らわす妄想して鬱憤を発散するようなボンクラな性格が幸いして、ほんとにたまたま、自分自身を見失わずに暗黒サイドに落ちずに済んだんだけど…。

一度、都を4つに分けた地区の選抜に選ばれたことがあって、普段の部活の練習とは別に選抜の練習や試合に行ったりするんだけど、それがもうむちゃくちゃ楽しかった。それこそ小学生の頃にバスケを初めてプレーした時のような根源的な楽しさなのね。監督は別の高校の先生だから体罰なんてないし、認められてるという実感があったからかなぁ。 高校の部活を思い返すとき、最も楽しかったのはコレですわいw

もちろん高校生なんてほっときゃすぐ弛緩しまくるからさ、厳しさは絶対必要なのよ。でもそれは楽しく自分らしいプレーがのびのびできる環境の中で、はじめて素直に真摯に受け止められるものなんだよね。

なのでスポーツ活動を通じて人間性を高めるのが運動系の部活動の意義だとするなら、自律的な成長をスポイルする理不尽な体罰の常態化なんて、ナンセンスじゃい、と、愛のムチという名のありがた~い指導を受けた側としては、実感せざるを得ないわけね。

サッカーのEURO2000でフランス代表が優勝した時の監督ロジェ・ルメールが言ってた
「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」
ってことばがあるのね。シンプルでいて真理を突いてるでしょ。

自律的な成長って環境との相互作用によって促進されて行くものだから、とりわけ生徒が置かれる環境に大きな影響力を持つ指導者には工夫がいるわけ。しかも生徒一人ひとりに対して決まったやり方なんてないから、それこそ指導者側が常に学ばなきゃいけないし忍耐もいる。その観点からいえば体罰って最も安易な手段で、工夫なんて何もない。何も考えずに手だけ出してればいいんだから。そこには成長や発展や学びはない。

こうして、体罰とかパワハラとかの安易な手段を使わずにいかに自律的な向上心や好奇心を引き出すか?ってのが、高校時代の部活での暗澹たる体験から引き出した、子どもや仕事で人に関わるときの持論になった(こうして書くと別に大した持論でも何でもねぇけどw)。

でも百歩…いや千歩譲って、もしそれでも体罰するなら、プロレス技で、ってのならまだ許せる気がする。テキトーぶっこきやがったらコブラツイスト!またはスモールパッケージホールド!はたまたナガタロック(白目付き)!とかね。これなら怒ってんのにどこか滑稽になって良いバランスになるんじゃないの!?

そうやって考えていくと、プロレスってやっぱり愛があるんだよなぁ(という意味不明な着地)。

体罰は、いくら殴る側が愛だよと言ったところで、そうじゃないことは殴られてる側が一番よくわかる。少なくとも自分は愛と虚栄心をすり替えて思考停止なんて絶対にしたくはないぞぉぉぉぉぉ。
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「笑い」とは、突きつけられる「問い」への「答え」である‐『LIFE!~人生に捧げるコント~』

ホント素敵なコント番組だったわ~。9月1日にNHK・BSプレミアムで放送されたウッチャンのコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』!

コント番組だから当然笑えるんだけど、それだけじゃない。笑いの向こう側に番組タイトルの「LIFE」、つまり人の生き様が滲み出てくるのがもうホント素敵だった~。

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お笑いナタリー - 秘話満載の「LIFE!」会見、内村が語るスタジオコント愛

誰でも常に様々な局面で大なり小なりその人なりの「答え」を出さなきゃいけない時ってあるでしょ。人生の中で直面する「答え」のない「問い」。「答えは…ありませんねぇ…」じゃなくて「とにかく答えを出さなきゃいけないんだよぉぉぉ!」っていう、まるごとの自分を試されちゃってるような時…。

その時その「問い」に対するその人なりの「答え」に宿る独尊性が生み出す周囲とのズレ。このおもしろさが『LIFE!』で浮かび上がってくるものなんだよね。もちろん「問い」も「答え」もことばによるものだけじゃなく、例えば状況によって問われることもあれば、行動によって答えを出すってこともある。

『LIFE!』に出てくるキャラクター達は全てごくふつうの人たちなのね。全く見たことがないような奇抜で現実離れしたキャラとかシュール過ぎるキャラは出てこないし、設定も身の回りにありそうなごくふつうの設定になってるわけ。もちろん多少はデフォルメされてるものもあるんだけど、あくまで「あぁ…なんかこんな人っていてもおかしくないなぁ…」って感じさせる範囲に留まってる。

冒頭一発目に、TV番組の街頭インタビューの設定で西田尚美扮するキャスターがウッチャン扮する一般人のおっさんに「あなたにとって○○とはなんですか?」っていう抽象的な「問い」をひたすらたたみかけ、おっさん段々グダグダになっていっちゃう…、っていうコントを入れてくるのね。で、このコントの締めに

「人生とは、答えのない『問い』である。」

ってテロップが映し出されて、番組全体が幕を開ける。このコントがこの後に続くすべてのコントの方向性を指し示してるんだよね。

つまり
①ふつうの状況でふつう人がやりとりする
②答えのない「問い」かけに対する「答え」のズレやギャップによって「笑い」を生みだす
っていう決まりごとによって括られたコントばかりなんだよね。

あのね、人生って大喜利そのものじゃん、って思うことがあって。たとえば自分の子どもがなにかやらかしちゃったとして、その時その状況で子どもに親として何を言うか、どういう態度をとるかって、その親の人間性にすべて委ねられてるでしょ。答えがないからこそ、己の全人格を賭けて対処しなきゃいけない。仮に道徳的に正しいこと言ったからってそれがいい結果を生むとも限らないし、一般的な道徳とは真逆だったとしても、その人なりの信念に基づいた態度であるなら、むしろそのほうが伝わったりもする。結局その人なりに対処する以外ない。

大喜利のように突如として与えられた答えのない「問い」に、その人なりにどういう「答え」を出すか?その連続が、まぁ言っちゃえば人生なんだよねぇ。

名著『夜と霧』でビクトールEフランクルもこう言ってるよ。

生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

夜と霧 新版夜と霧 新版
(2002/11/06)
ヴィクトール・E・フランクル

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ふつうの人が、そのふつうな人生の中で、「答え」のない「問い」に何がしかの答えを出そうとするとき、別にワザとボケたり笑わそうとしたりなんかしてなくても、その「答え」の中にどうしようもなくその人にしかない味わいってのが立ち上ってくるわけ。それを客観的に捉えたときにズレやギャップが生まれてどうしようもなくおもしろかったりする。さらにその向こう側に「答え」を出した人間の積層してきたこれまでの生きざまをみちゃう。

答えのない「問い」だから当然すっぱりと答えがでずに右往左往したり、ごまかそうとしちゃうことだってときにはある。そうしたしょーもない「答え」であったとしても、そのしょーもなさもまたその人間の味なんだって全肯定できちゃう懐の深さを感じさせるんだよねぇ。

ホント素敵なコント番組だからさ、再放送とかあるか知らんけど、どうにかして観た方がいいよ~。

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原発再稼働反対・官邸前デモは、原発再稼働反対だけにあらず

6月29日(金)の18:30~20:00まで、首相官邸前をはじめとする国会議事堂一帯の地域で行われた原発再稼働反対デモに参加してきた。



このデモは昨年から行われているようで、はじめは300人ぐらいからスタートしたのが回を追うごとに参加者が膨らみ、Twitterなどの口コミも相まって、今回はなんと延べ15万人が参加したとか。

全国各地で原発抗議 官邸前「15万人」で騒然



現場はほんとうにもの凄い熱気。時間を追うごとに人の数も熱量も増していき、ついに交通規制が行われて道路も解放。特定の層が集まっているわけではなく、自分のような会社帰りのサラリーマンから若い親子連れ、大学生っぽい若者、お年寄り、さらにはミュージシャンや著名人まで老若男女入り乱れてた。

それぞれが思い思いのシュプレヒコールや旗を掲げて、ひたすら「さいかどうはんたい!」とひとつになって声をあげる。



よく日本じゃアラブの春は起きないと言われるけど、全然そんなことないじゃん。そりゃ暴動は起きないかもしれないし、あまり起こってほしくもないけど、少なくとも民意を無視した決定がなされればいつでも声はあげるぞという姿勢が示された。参加した人々だってこれぐらいやろうと思えばやれちゃうんだなって実感したんじゃないかな。少なくとも自分はそう感じた。



今回は原発再稼働反対を目的としたデモだったんだけど、このデモのインパクトはそれに収まらない。なんならいつでも声上げるぜ・立ち上がるぜっていうメッセージを示したことそのものがいちばん大きいんじゃないか。これからさまざまな決定において、日本人は大人しいから声あげないだろって魂胆で庶民ナメてヘタなことできなくなる。良い意味でタガが外れちゃったぜ日本人。

ブログタイトル「Today's Reflection」に変更します

このブログ、何気に丸4年やってて、もう5年目突入なんですよねぇ。わりに続いてるなぁと他人事のように振返りつつ、そろそろこのわけのわからんブログタイトルを変更しようかな~と思い至ったわけなんです。

『シゴトはさんかく、キモチは四角。』ってぱっと見ぜんぜん意味わかんないもんねぇ。まぁ始めた当初はそれなりに考えて付けたタイトルではあったんだけど。

で、肝心の新タイトルのほう『Today's Reflection』に決めました。

「Reflection」って、人材育成とか能力開発の分野ではよく使われる言葉で、「内省」とか「振り返り」とかの意味を持つそれなりに重要な言葉なのね。

ただまぁこのブログタイトルに関してはそいうい真面目な意味合いをあまり前面に出したくない。どちらかといえば「反射」という意味でこのことばを用いたい。「今日の反射」ってことで。

どういうことかというと、『BRUTUS』3/1号の「マンガが好きでたまらない」特集の中で甲本ヒロト×井上崇宏×師岡とおる による『キン肉マン』マニアの対談記事が掲載されてるんだけど、そこで我らが甲本ヒロトが、こんなことをさらっと言っていたのね。

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星とか月とかって輝いて見えるけど、あいつらはただ太陽を反射してるだけなんだよね。自分も『キン肉マン』に与えてもらった感動を跳ね返して、時々は輝くことができてるかもしれないな

自分が輝いてるんじゃなくて、「自分がもらった感動を反射して輝く」。これってここに文章を書くときに、拙いなりに実は最も意識していることなんですよ。

何かに感動すると、触発されるものがあるでしょ。それを素直にことばにあらわしたい。つまり反射させたいんです。

それに自分のことばとして発したことばであっても、その主体である自分の考えていることって、これまで触れてきただれかの考えに影響を受けたものに過ぎないわけでしょ。全くゼロから自分の考えを構築するなんてことはありえなくて、誰かの思考・姿勢・ことばを無意識的に少しずつ組み合わせて、さも自分のことばのように跳ね返しているだけなんだから。

そこんとこに一回立ち戻りたいなぁと考えていたときにヒロトのこのことばを読んで、甲本ヒロト原理主義者としてはタイトルに用いないわけにはいかなかった…ってわけなんです。

ということで、引き続きよろしく~。

ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」 評を聴いて「評論」について考えてみた

アンタも自分のことばでラップ(評論)しちゃいなよ!って話です。

4/28 ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」

いや~先週末のTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』のザ・シネマハスラーのコーナーで、な、な、なんと投稿したメールを読まれてしまいました…!

今回のシネマハスラーのお題作品『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を事前に鑑賞して、これがまぁ良かったんで半ば衝動的に感想メール書いて送ったら拾われた…。ラジオ番組にメールを投稿するなんて初めてだったんで、絶対読まれるわけねぇし…と思ってペンネーム超適当に付けたことを今更すんごい後悔…。あぁ恥ずかしい。

で、メールを読まれたからシネマハスラーの話がしたいわけではなく(まぁそれも何%かはあるけど…)、今回の宇多丸さんの評論がまた素晴らしくてガンガン触発されちゃったので、聴いてて考えたことを書いてみようとこのエントリー。


まず、できればこの映画を観たうえで上のPodcastを聴いてもらえれば1番良いんだけど、とにかく宇多丸さんの熱量がハンパじゃない。特に「ラスト10分の完成度は異常」とか「この作品は現実と混同してしまうパワーがある」「ラストのラップが作品全体の円環構造になっていて、ここはもう腹の底から震えるような感動を味わった…」とか、もうこれ聴いてるだけで、むしろ映画観た時と同じくらい居てもたってもいられないような、突き動かされるものを感じてしまう…。

「評論にふれる」ということ

自分はよく、映画や本、音楽、サッカーの試合なんかのコンテンツ、いわば1次的創作物にふれると、どうしてもそのコンテンツに対するの誰かの評論・批評にあたりたくなる。もちろん、評論とか批評を聴いたり読んだりしただけでそのコンテンツを全て知ったような気になってしまうのは問題外。あくまでその元になる1次的創作物による情緒的な体験があることが前提。そのうえでたとえば映画評論や書評、ディスクレビュー、ライブレポ、マッチレポなんかにあたるのが、もう楽しくて仕方ない。なぜかというと、2つ理由があります。

1つめは自分とは違う他者の意見を通して、違う視点を得られること。違う人の意見にふれて、共感したり同意したり、逆に同意できなかったり、あるいは全く思いもよらなかった視点を得たりする。すると自分の言語化できていなかったぼんやりとしたイメージが相対化されて、明確に浮き彫りになる。他人の意見を鵜呑みにするでもなく、全否定するでもなく、自分の考えの補助線にしちゃうんです。

2つめは、評論や批評を通じて、ときに論者の生き様や、その人が大切にしている何かが如実に立ち昇ってくるのを垣間見られるのがとにかくおもしろい。コンテンツを語ってるのか、自分を語ってるのか、その境界線が曖昧になって一体化することがあるんです。コンテンツに自分自身を投影する、あるいはそうせざるを得ないというようなとり憑かれた感がもう大好き。

今回の「SRサイタマノラッパー」評で言えば、「EAST ENDと出会った頃を思い出した。仲間との出会いはライムスターの活動にとって救いだった」と自らの活動初期を回想するくだりとかね。

「評論する」ということ

で、もっというと、他者の評論や批評によって明確になった自分のイメージは積極的にアウトプットしたらいいと思う。つまり、自分でも評論しろってこと。

いま上で書いたように、受け取ったコンテンツについて評論するというのは、客体であるコンテンツを鏡にして、個体である自分自身を明確に浮かび上がらせる行為なんです。下手な自己分析なんかよりよっぽど自己理解につながる。別に高尚で立派な意見じゃなくたっていいんです。だいたいでいい。その時点で自分が感じているイメージをもっとも近いことばで表すだけ。

それに評論とかって、一次的創作物のおまけでしかないと思われてるかもしれないけど、これも実は立派な創作なんじゃないかと思うんです。

岡本太郎も名著『今日の芸術』でこう書いています。

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)
(1999/03)
岡本 太郎

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あなた自身を創造する
私の言いのたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果に過ぎないのですから、かならずしも作品を残さなければ想像しなかった、なんて考える必要もありません。(中略)
だから、創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたらせることは、りっぱな創造です。
つまり、自分自身の、人間形成、精神の確立です。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身も魂もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を創造しているのです。

搾取のサイクルから自由になる

今回の評論で宇多丸さんは「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」のテーマを一言で「夢と搾取」の映画だって言ってたんだけど、これを借りるなら、自分の好きなもの・感動したことについて評論することは「搾取するものされるもの」のサイクルから自由になることでもある。

例えば「会社で働くこと」だってある面では「搾取するものされるもの」の側面を内包しているわけです。そういうサイクルの中で日々もがいている人も、感動したこと・好きなこと・気づいたことについて自分のことばでラップする(評論する)ことで、窮屈なシステムから少なくとも精神的には解き放たれる。

自分のことばで自分の意見をアウトプットしながら確固たる自己形成を積み上げてる人は、仮に「搾取のサイクル」に取り込まれていたとしても、むしろその「搾取のサイクル」を自分に引き付けて利用したり、「搾取のサイクル」に変容をもたらすことができるのね。これホントだから。

映画の中で、IKKU達だってあの悪徳業者達の恣意的な提案をむしろ利用してたでしょ。そういうことです。観た人にしかわからんだろうけど。

というわけで、結局何が言いたいかって言うと、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』も「ザ・シネマハスラー」も最高じゃい!ってこと!現実と作品がほんと混ぜこぜになる!いいから観ろ!聴け!

↓ヤバイから聴いて!
4/28 ザ・シネマハスラー「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」

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