You are not Logged in! Log in to check your messages.

Check todays hot topics

Search for Services:

Please Log in

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ラップも評論も、感動の自己分析です-『二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~』

もし仮にラッパーが、自分の内面から湧き出てくるラップじゃなくて、「こんなん言っときゃ売れるっしょ」みたいな「提灯ラップ」してたら、そんなの聴きたくないよねぇ。やっぱり自分に正直で自由に表現しているラップが聴きたいわな。

二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~ (ele‐king books)二木信評論集 ~しくじるなよルーディ~ (ele‐king books)
(2013/01/18)
二木信

商品詳細を見る


こちらの一冊は2000年初頭からヒップホップを中心とした音楽ライターとして活躍している筆者の、これまでの原稿やアーティストへのインタビュー、そして新たに書き下ろした原稿・インタビュー、レビューなどで構成された評論集。

まず何と言ってもタイトルが最高!CLASHの名盤『London Colling』に収録の、おとぼけ哀愁レゲエ炸裂な『Rudie Can't Fail』からの引用。よくぞこれを持ってきてくれましたなと!もはやタイトルだけで「ヨッシャいっちょ読んだる!」と鼻息荒く勝手にコミットした次第。



で、最初に言っちゃうと、ヒップホップ門外漢の人にとっては正直ちょっととっつきづらいかもしれない。自分も90年代ジャパニーズヒップホップなら友人の影響でかろうじてかじってるけど、2000年代になるともう全く追っかけてないから、タイトルには喰いついたけど目次なんかをパラパラ見てたら正直「自分との接点が見つけづらいかもなぁ…」なんて思って読み始めたわけ。

でも結果的にものすんごいおもしろく読めた!というかむしろ相当引き込まれて、読後はお腹いっぱいで大満足。なんでそんなことになったかというのを自己分析しちゃうと、どうも2つ理由があるのかなぁと。

1つは超個人的な理由だけど、筆者が自分と同じ81年生まれで完全に同学年であるということ。それに加えて本書に登場するラッパーたち、例えば鎮座ドープネス、環ROYなんかも81年生まれでこれまた完全に同学年。田我流も82年生まれだし、他にも比較的年代が近いラッパー達が多く登場するんだよね。日本のヒップホップといえば90年代のシーンを連想しがちだけど、本書ではそのあたりを綺麗にスル―して、2000年代の新しいヒップホップに焦点を当ててるんだよね。

なので読んでるうちに、自分とは全く違う分野の全く違う世界を生きている筆者やラッパー達に対して勝手に連帯感のようなものが芽生えてきちゃうわけ。自分と同じ年頃の彼らがそれぞれの場所でどのようなことを考えてどのように生きてきたかのか。それがあたかも自分の仮の姿であり、もう一つの自分の人生のように思えてきちゃう。そんな具合に勝手に当事者のようにリアリティを実感しながら読んだ。ほんとまぁ勝手で図々しいんだけどね。

2つめは、筆者の文章がそのままラップとして読めちゃうってこと。ヒップホップってラップする人の属性を選ばないでしょ。むしろマイノリティであるほどに輝きを増していく。日本に階級はないけれど、田舎だとか地方だとか、あるいは犯罪だとか貧困だとか、そうした一見社会の端っこに追いやられているものや社会の暗部として認識されがちな場所から、ミクロな視点でラップすることが普遍性を獲得していく構造を持っていると思うんだよね。あと逆に言えば、一般的な社会で好ましいとはされていない生き方を許容する側面も持っている。

そういう視点で言えば、ナイトクラブや小規模のオーガニックフェス、サウンド・デモのような、一般の多くの人が居合わせないアウトローな場所で、何が起きているのか?何を感じたのか?何を考えたのか?を、ミクロな視点で時にほだされたように熱く、時に冷静沈着な科学者のように分析的にことばを紡ぐ筆者の文章は、これもまた一つのラップだと言えちゃう。それこそ(誤解を恐れずに言うと)まだまだ一般的には知名度や市民権を獲得しているとは言いえない若手ラッパー達、あるいは「ヒップホップ」というジャンルを取り巻く雑多な文化そのものについて、自由に評論することそれ自体がヒップホップ的なわけで。

本書には雑誌のレビューで筆者が環ROYのアルバムを酷評したとして、環ROY本人から「提灯記事を書いてよ」と反論を受けた議論も収録されてるのね。これ、とても興味深く読んだんだけど、やっぱり筆者の言うように「音楽を聴いて何を言おうが書こうが自由」な文化がおれは好きだなと感じた。当たり障りのない提灯記事なんて読んでる時間がもったいないじゃん。この本のように正直な意見や感想が記された記事や、半ば妄想で突っ走っちゃってるような記事こそが読みたいよ。

孫引きになっちゃうけど、本書から、筆者が敬愛するアングラ・カルチャー&ジャズの評論家・平岡正明さんの言葉。

楽譜の分析やら音楽家の自己解説(コメント)の紹介を音楽批評ととりちがえてはいけない。音楽評論とは感動の自己分析です。曲に身をゆだね、心に浮かぶ印象、快美感、理論などがフツフツと断片的に、連続的にやってくるものを、もう一つ外側からのぞきこむ作業である。

これは「文章を書く」「評論する」という行為だけでなく、表現そのものの意味を問うてるとも思うんだけどね。

というわけでヒップホップ好きはもちろん、ヒップホップの門外漢でも、自分が住んでる世界とは違う少々不道徳で野放図でファンキーな世界を覗いてみたい人、あるいは「文章を書く」とか「表現の自由」みたいなことに興味感心が強い人はかなりおもしろく読めると思うよ~!

関連記事
『ラップのことば』猪又孝 ラッパーとは自分に真っ正直なヤツ
FC2 Management

MAGIC SPICEのスープカレーで未知なる辛世界へトリップのすゝめ

自分の固定観念がブッ壊されて病み付きに、というかもはや中毒になっている最近一押しグルメのご紹介です。それはコイツです。



札幌発祥のスープカレーのお店・MAGIC SPICEのスープカレーです。東京は下北に店舗があります。MAGIC SPICEはよくTV番組などで札幌の食文化の代表として紹介されることも多くて、この間は大泉洋が麻生久美子なんかと一緒に紹介してるのをみかけました。まぁ有名店なんで今さらおれごときがプッシュする必要はこれっぽちもないんですけどね。

以前何度かここのレトルトを買って、自宅で作って食べたことはあったんですが、1か月ほど前に初めて店舗に行ってみました。
マジックスパイス スープカレーの素マジックスパイス スープカレーの素
()
明治

商品詳細を見る


ここの大きな特徴はスープカレーの辛さを選べるシステムにあります。といってもただ単に辛さを(たとえば「ノーマル・中辛・激辛」とか「ノーマル・10倍・20倍」とかのように)選ぶだけのものではありません。ここが面白いのは、単なる「味のチョイス」という狭い範囲に留まらずに、辛さを通じた「体験のチョイス」に置き換えるシステムが採用されているんです。

辛さは7段階用意されており、辛さの軽い方からそれぞれ「覚醒・瞑想・悶絶・涅槃・極楽・天空・虚空」という呼び方をされています。これらは宗教などにおける普遍的な領域へのトリップをさす言葉であり、つまりはMAGIC SPICEのスープカレーを通じて、俗世の現実から解き放たれ、苦しみを忘れる体験を味わえるということを示しているわけです。ちなみに辛さのチョイスによって入っている具の種類や量も変わってくるみたい(辛さが増すほど具も増えるらしい)。

注文してから料理が来るのを待っている間、テーブルにある辛さごとの説明書きを読むと、やれ「目くるめく『辛世界』へナチュラル虹旅行」だとか、やれ「望む望まざるに関わらずどなた様も虚空宇宙へ飛んで頂きます」だとか書いてあるw

いやむしろちょっと危険なにおいがしてくるというか、段々これって大インド帝国の目くるめく宗教的世界の一端に足を突っ込もうとしちゃってるのか?もしや脱法的なナニか?なんて気分にもなってきちゃうw

この辺の冗談か本気かよく分からない説明書きや店内の雰囲気とかに、良い感じに酔わされてしまって今か今かとスープカレーへの期待感を煽られるわけです。

ようやく運ばれてきたスープカレーを早速ほおばると、もちろんこれだけスパイシーかつ辛いよ~ってのを謳ってれば、当然スパイシーだし辛いに決まってるし、汗も毛穴から一気にブワーッと吹き出てくるわけなんだけど、これがもう不思議と心地良い。
「あぁ~!」
とか言いながら恍惚の表情を浮かべて嬉々としながら食べちゃうわけ。

でね、そのときはもうもちろん大満足なんだけど、問題はそっから。次の日のランチの時間になると、そのとき食べてる定職やら丼物やらが全っ然物足りなく感じられちゃう。。。はじめは自分でもその違和感の原因がよく認識できてないんだけど、そのうち
「そうかー、昨日のスープカレーの刺激を欲してるのかー」
と気づく。そうするとさ、段々
「あぁーもう!MAGIC SPICE食いてぇ!」
ってそれしか考えられなくなってくる。完全にMAGIC SPICEのドープなテイストに痺れちゃって、MAGIC SPICEジャンキーに豹変しちゃってる自分に気づくわけ。危ないでしょ。ヤバイでしょ。いや、この店ホント危険なのよー。

というわけで現在は、店舗でまたごっそり買ってきたレトルトを週一のペースで食ってるわけなんです。それ以上のペースで食ってると本気でこの中毒症状から抜け出れなくなりそうなのでなんとか抑制してはいるけれど、全く持って気が抜けません。もうね、いまや普段食ってるものが「MAGIC SPICEとそれ以外」という位置づけになってるもん。

でね、こんなこと書いてると、元々辛いのが好きなヤツなんだろうな~と思われるかもしれないけど、むしろ昔っから辛いのは全くダメで全然受け付けない体質だったんですよ。ほんと普通にカレーは甘口しか食べれなかったし、カレー屋で大盛り頼んだら(辛さはノーマルなのに)辛くて食べきれずに残したっていう恥ずかしい体験もしたことあります。

それが、ここ1年ぐらいで急に、
「あれ?いまおれ、めっちゃ辛いの食べたいぞ」
と思うようになってきたし、実際食べてみると、辛さの刺激がなんともたまらない。完全に体質変わっちゃってきちゃってるんですよ。

自分の中では、今に至るまでの長い時間を経て「辛いのはムリ」っていう堅牢な固定観念が築き上げられているんだけど、そういうものも時間の経過によってある日ウソみたいにボロボロと崩れ落ちて、あっという間に崩壊していってしまうことがある。その感覚、それ自体がもうなんというかすごくおもしろい。

以前木村祐一×甲本ヒロトのトークショーイベントを観にいったときに、ヒロトがこんなことを言ってたのね。

「ビールは小さい頃無理矢理飲まされて、こんな飲み物マズイ……って思ってたのに、いつのまにか甘いとか辛いとか苦いとか、そういう“味”じゃなくて、なんかだかわかんないけど“ウマイっ”と思うようになった。そういう“苦痛”がある日突然“喜び”に変わることがある。これってほかのことにもあると思う。朝起きてから夜寝るまで、このビールの話しのようにほかのことが楽しくなったらいいなと思って日々生きている」

自分はビールは相変わらずダメなまんまなんなけど、辛いのでキタかーーー!と。こういうことがあるから年を重ねるのって最高なんだよね~。

というわけで、むしろ「辛いのは絶対ムリ!」っていう人にこそぜひともMAGIC SPICEを味わってもらいたいんだよねぇ。まぁだまされたと思って食べてみたら、むしろジャンキー化してズルズル依存する羽目になった…なんてことになっても責任は一切取れませんが…。

固定観念、既成概念など古いモノサシを捨て、未知なる辛世界へ飛行いただければ幸いです。
―MAGIC SPICE HPより

「父と息子の物語」としてのトイ・ストーリー-『トイ・ストーリー1・2・3』

超今さらだけど『トイ・ストーリー』シリーズは、特に父親は絶対観ておいた方がいいって!泣いといたほうがいいって!いつか訪れる子離れの時の覚悟を持つためにもさ~!

トイ・ストーリー スペシャル・エディション [DVD]トイ・ストーリー スペシャル・エディション [DVD]
(2010/05/21)
ディズニー

商品詳細を見る
トイ・ストーリー2 スペシャル・エディション [DVD]トイ・ストーリー2 スペシャル・エディション [DVD]
(2010/06/23)
ディズニー

商品詳細を見る
トイ・ストーリー3 (期間限定) [DVD]トイ・ストーリー3 (期間限定) [DVD]
(2012/07/04)
ディズニー

商品詳細を見る


去年の夏から秋にかけて『となりのトトロ』に夢中だった娘っこが、最近はもっぱら『トイ・ストーリー』シリーズにはまっております。

トトロにみる子どものセンスオブワンダーを引き出す親のかかわり方-『となりのトトロ』

休みの日はだいたい1~3のどれかを1本観てるし、へたすりゃ2本観る勢い。昨年12月に念願のディズニシーの「トイ・ストーリーマニア」にも行くことができて、その余韻がまだまだ衰えることを知らず、むしろ拍車がかかってるかのように『トイ・ストーリー』の世界にのめり込んでます。

で、トトロの時と同様、子どもがそんだけ観てると親もまたえっらい観るはめになる。そうするとやっぱり親目線でいろいろ気づくこともあるので、その辺をまた書いておこうかと。

シリーズの1~3でいえば、自分はやっぱり3が最も好きで、特に終盤はほぼ号泣。それはなぜかといえば、カウボーイ人形の主人公ウッディの「父性」が濃く描かれてるからなんです。

『トイ・ストーリー』は、3作通じて「おもちゃ同士の友情」っていうテーマがまずどーんとある。そしてそこにぶら下がるようにして、例えば抵抗できずに使い捨てられるおもちゃの辿る顛末(労働者や労働観のメタファーにもなっている)だったり、子ども達の憧れが西部劇のガンマンから宇宙開発・宇宙飛行士に移行していくという近代アメリカの歴史と象徴の移り変わりだったり、誰もがいつか絶対的な死を迎える運命にあるのだという諦観だったり…。こうした様々なメッセージが並行して潜んでるわけね。

そんな中でとりわけ3に濃厚に感じられるのがさっきも言ったように主人公ウッディの「父性」。『トイ・ストーリー』って実は1から3まで、ウッディの持ち主であるアンディの父親が一回も出てこない。作品中で家族として出てくる登場人物は母親と妹だけ。元々いないのか、いるんだけど作品内であえて出してないのかはわからない。けどいずれにしても父親は一切出てはこないし、むしろ意図的に排除しているように見えるわけ。どうしてかというと、それはもう完全にウッディが父親の役割を果たしているってことなんだよね。つまり『トイ・ストーリー』とは実はウッディとアンディの「父と息子の物語」であるとも言える。

母親の役割(母性)が無条件の愛情で包み込むことなら、父親の役割(父性)とは社会性を教えること。この社会性の象徴としてウッディは描かれている。

ラストのシーンでアンディがウッディをはじめとするおもちゃたちを新しい持ち主の女の子に一つ一つ紹介するところがあるんだけど、そこでアンディは最後にウッディのことをこう紹介する。

「強いカウボーイで、勇気があるんだ。優しいし賢いし、でもウッディの一番すごいところは友達を見捨てないこと。絶対に、何があっても傍にいてくれるんだ」

ここは、アンディがウッディのことを深く理解していることを描きながら、実はアンディがそのセリフで言っていることを、ウッディから学んできたということを表してるシーンでもある。

それともう一つグッとくるのが、お互いに依存していた親子関係から、ついに両者がそれぞれ自ら別離を選択するところを描いてるとこ。

親子(あるいは師弟)ってのはいつか「育てる・育てられる」という関係から離れなければいけない。それが親子関係の大前提であるとも言える。その前提がなければただの依存関係であり、親子とは言えない。

3の冒頭では、大学入学のためにひとり暮らしを始めるアンディがウッディだけは大学の寮にに連れて行こうとする。ウッディのほうも保育園や別の女の子の元ではなく、あくまでもアンディの傍にいようとする。つまりまだ相互に依存しあってる状態で、親離れ・子離れが出来ていない状態なんだよね。

それがラストに向かって、お互いに自らが主体的に相手の傍からの別離を選択する。どちらも傍にいる形を選択しようと思えばできたはずなのに。

2人が本当の親子のように通じ合っていて、それでもそれぞれが同時に別離を決意するその内面の移り変わりという成長のプロセスを、直接的なコミュニケーションじゃなく(人間とおもちゃだから)間接的なコミュニケーションを通して表現されるわけ。アンディの語りのときはウッディ達はおもちゃとして無機質な状態のまま感情を表現しない分、ウッディ達がアンディの語りを万感の思いで聞いているであろうことが否応なしに想像されてしまって、これ以上ないほど感動が迫ってくる。。。

あとね、ディテールのとこにもちょっと触れとくと、オープニングで過去の幼少の頃のアンディがウッデイたちで遊んでいる映像が8ミリカメラ風の映像によって流される。その時にかかるBGMがシリーズ通してのメインテーマ曲の『君はともだち』なのね。この『君はともだち』はウッディの声で歌われていて歌詞は明らかにアンディに向けている歌なんです。ちょっと引用すると

俺がついてるぜ 俺がついてるぜ
辛いことばかりでも 君はくじけちゃだめだよ
思い出せよ ともだちを
きみのすぐそばに いつも俺がいる

俺よりもすごいやつは たくさんいるよね
だけど俺よりも君のこと
気にかけるやつは いないよ

っていうような歌ね。で、画面の8ミリカメラ映像がブツっと途切れるのが、ちょうど曲の最後の方の
「時が流れても~ 変わらないもの~♪」
という歌詞が流れるとこなんだけど、実はそのあとに来るはずだった歌詞とは………?

「それは~ 俺たちの絆」………。

つまり、『トイストーリー3』は「俺たちの絆」の映画なんだよってことをオープニングでちゃ~んと示唆してるんだよね。という都合のいい解釈…。

いやほんと父親はこれ観といたほうがいいって。ウッディに重ね合わせて、いつか自分にも訪れる子離れの時の覚悟を持つためにもねぇ…。

まぁ、こんな記事書いてる時点でオマエ相当子離れに難儀するだろ…って自分でも思うけどさ…。

関連記事

『WALL・E』 ロボットの〝感情〟が教えてくれるもの。

仮面の下に潜む沈黙の宇宙から…‐『藝人春秋』水道橋博士

読書が好きで、くる日もくる日も飽きずに本を読んでいると、ごくまれに、読み終えた瞬間、自分の全感受能力を動員してもその実感を処理しきれずに言葉を失ってしまう本に出会うことがある。本書もその一つとなった。

読んでる途中から言葉を失ってしまい、ただ「沈黙の宇宙」に漂い、放心するのみ。そして裏表紙を閉じると同時に、沈黙のまま手にしている本を胸の内に抱きしめたくなってしまう。沈黙の宇宙空間に、決して言葉にはできないが確かに存在している何かと共に…。

藝人春秋藝人春秋
(2012/12/06)
水道橋博士

商品詳細を見る


藝人春愁 (水道橋博士 著)

本書は数多の巨星・名人・怪人芸人たち15名の、その濃厚すぎる生き様を、浅草キッドの水道橋博士が小説のように描写した一冊である。主な登場人物はそのまんま東、甲本ヒロト、草野仁、石倉三郎、古館伊知郎、三又又三、ホリエモン、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、爆笑問題(太田光)、松本人志、稲川淳二。そして通奏低音として、常にビートたけしの存在が色濃く意識される。

本書を読み終えて、本当にただ圧倒され言葉を失ってしまった。一言たりとも感想めいたものをつぶやくことができない。仮に言葉をにできたとしても「すごい…」とか「ヤバい…」とか、表面的なものしか出てこなかっただろう。とてつもないものに出会うと人間は真っ先に言葉を失うらしい。

しかし、しばらく時間が経過すると、冒頭から書いてきたことと矛盾するようだが、その沈黙の中から無理やりにでも語るべき言葉を引き出そうとしている自分に気づく。そして今まさにこうして文章を綴ろうとする衝動に駆られてしまうのだ。

なぜそのような衝動に駆られるのか?その理由はあえて後述することにする。

さて、本書に登場する15名の芸人に共通するもの。それはみな「雄弁」であるということ。それぞれが時に激しく時に穏やかに、時に大胆に時に不敵に、ある種の突き抜けた強度を具えた、逆説的で哲学的な自らの言葉を雄弁に響かせてゆく。

そして芸人達の雄弁な言葉を綴る筆者の言葉もまた雄弁。アナグラムや押韻、メタファーを張り巡らせ、ひとつのセンテンスのなかに幾重にも意味が折り重なり、それらが次々と関係性を持って連鎖していく。その語り部の濃厚な言葉から、語られるそれぞれの芸人がもつ十色が匂い立つかのように浮かび上がってくる。

このようにして、語られる芸人と語り手の濃厚で雄弁な言葉が、シンクロしグルーブし激流となって読み手を襲うのだ。

仮面の下に潜む素顔、それは沈黙の宇宙

本書はしかし、その「雄弁な言葉」だけで構成されているわけではない。むしろその「雄弁な言葉」とは、本書を構成する要素のほんの一部でしかない。

どういうことか?それは綴られた言葉が雄弁かつ濃厚であるが故に、逆説的に、人間という存在が抱える「言葉にならない・言葉にできない」深淵で崇高な何かを照射しているからである。「雄弁な言葉」の字面から、行間から、人間の持つ深遠な宇宙が染み出し、次第に顔を覗かせてくるのだ。

「雄弁な言葉」とは「言葉にならないもの」のほんの一部を一つの表情として外部に知覚させる仮面のことなのだ。つまり芸である。その芸の仮面の下には必ず見えない本当の素顔が隠されている。その素顔こそが「沈黙の宇宙」にある「言葉にできない何か」であり、人間のもつ深淵さなのだ。

本来であれば、芸人とは自らの素顔をさらけ出すことはない。どんな時でも素顔を隠し、人を笑わせなければいけない世界だからだ。

芸能界は親が死んでもトチれない世界なんだよ。だから辛抱だ。辛抱ってのは、辛さを抱きしめるってことだからな。今はひとりで抱きしめろよ!―石倉三郎

芸能人っていうのは、身内に不幸があっても笑ってなきゃならない。陰でどれだけ泣いても苦しくても、テレビでは『はいどうも~』って笑わせなきゃならない。もう、やかましいぐらいよくしゃべって、『あんた明るいねぇ』なんて言われていましたからね。―稲川淳二

しかし、筆者によってその芸という名の仮面が精緻に描写されると、仮面の綻びやズレが段々と露わになってくる。その隙間から漏れ出てくるものが読み手を鷲掴みにし、強引に「沈黙の宇宙」へと放り投げるのである。

自分のことになるが、名作『キン肉マン』にはたくさんの印象的なシーンがある。その中でも特にロビンマスクの仮面が剥奪され、暗幕で覆われた顔面に鋭く光る眼光が露わになったシーンは、強烈にドキリとさせられた。闘いと友情を、熱さとコミカルさで描くのが基本トーンの作品であったが、ロビンマスクがマスクを剥奪されるシーンは一種独特の深みのような側面を『キン肉マン』にもたらした。子どもながらに侵してはいけない神聖な領域を侵してしまったかのような罪悪感にも近い情動を感じてしまったことを覚えている。

また、小学生の頃にワールドプロレスリング中継で流されていたザ・グレート・ムタVSスーパーストロング・マシンの一戦も忘れられない。真夏のよみうりランドの野外のリングで行われたこの一戦。試合終盤に突如としてムタが非情にもマシンのマスクを引き剥がしにかかる。すぐさまマシン軍団によってタオルが被せられるまでのほんの数秒の出来事だったが、ムタの毒切りによって緑色に変色した素顔のマシンの顔面に妖しく光る眼光をカメラが確かに捕えたのだ。この一戦にも、やはり見てはいけないものを見てしまった罪悪感に似た衝撃を受け、掻き乱されるほどに魅了された。

蛇足ながらに言及しておくと、このよみうりランドの一戦は新日ファンなら誰もが知る「オマエ平田だろ!」事件よりも後の出来事であったが、当時小学生の自分には、そのような文脈的な知識は幸いと言っていいのか、まだ持ち合わせていなかった。さらにいえば「しょっぱい試合してスイマセン」事件よりも前の出来事である。当時の小学生はまだ、スーパーストロング・マシンとは「戦慄の殺人魔神」であるという幻想の中にあった。それだけにこの一戦は、冷酷で不気味な笑みを湛えたマスクの裏側の闇の中に、陰影のある表情が潜んでいることを小学生の脳裏に強烈に妬きつけたのだった。

これらの体験と同様に、芸という名の仮面の隙間から、本人の素顔、つまり「沈黙の宇宙」が漏れ出し、染み出してくることによって、遂には自らまでも「沈黙の宇宙」に放り出されてしまう。それこそがこの本が持つ超一流の芸がなせる技なのである。

「沈黙の宇宙」と「死者の記憶」

先ほどから何度も繰り返している「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」。それはいったい何か?内田樹氏の『街場の文体論』に「言葉にならないもの」についてこのような一節がある。

僕らの身体の中心にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものは、かたちあるものではない。それは言葉にならない響きや波動や震えとか、そういうような非言語的な形態で、死者たちから生者へと手渡される。言葉というのは、「言葉にならないもの」をいわば母胎として、そこから生成してくる。それを「ソウル」と言ってもいいし、「生身」と言ってもいいと僕は思います。そこから発してくる言葉だけがほんとに深いところで人を揺さぶる。

街場の文体論街場の文体論
(2012/07/14)
内田樹

商品詳細を見る
「沈黙の宇宙」、「言葉にならないもの」は、人を揺さぶるような言葉や芸が生成される母胎のようなもの…。

またもっと踏み込むと、「沈黙の宇宙」はあの世・あちら側の世界のことであり、それは「死」に似ている。言葉や芸という、他人が知覚できる表現を仮に「生」にたとえるなら、隣り合わせにある「沈黙の宇宙」は「死」だ。「死」は絶対的な沈黙である。

そして死者が持っていた記憶は「沈黙の宇宙」に残る。偉大な芸人達は、その「沈黙の宇宙」で死者の記憶とつながっていて、奥底で常にその存在を確信し、肯定・受容して、言葉や笑いや歌へと昇華させているのではないか。『街場の文体論』からもう一つ。

みなさん一人一人のなかにも、それぞれが属している集団や共同体のソウル、あるいは親たちからのソウルが「メモリーズ」として輻輳している。見知らぬ他者の、死者たちの記憶がみなさんの中でざわめいている。死者たちの記憶は消えない。ある種の波動のようなかたちで残っていて、それが僕たちの「ソウル」をかたちづくり、そこから他者に届く言葉が不断に生成している。

死者は、生者の知らない記憶を持ちさる。しかし、その記憶は何らかの形で伝達される。誰にも教えられるわけでもなく普段何気なく取っている行動から、ふと亡くなった祖父や祖母や恩師の存在(というよりも質感や匂いといったほうが良いか…)を丸ごと感じてしまうことがある。そんなとき、自分は自分だけで構成されているわけではく、過去の死者たちの記憶のなかで、また新たな記憶を生きていることを実感するのだ。

おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。―まえがき


芸人達の気持ちをコピーする

さて、私が本書を読み終えて言葉を失いながら、それでもこうして稚拙ながらに言葉を綴る理由がおわかり頂けたでしょうか。本書で紹介されている15名の芸人たちと筆者は、意識的か無意識的かの違いこそあれど、常に「沈黙の宇宙」に身を浸し、そこから「雄弁な言葉」や「芸」を生成している。つまりはその〝気持ち〟をコピーしたかったのだ。

「芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、まず自分の好きな表現スタイルを模倣しようとするじゃん。『アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい』って思っちゃもうダメなんだよぉ。アイツがあの音を鳴らした時の〝気持ち〟をコピーするんだよ。衝動を。そうやっていくとオリジナルで一生現役でいられるんだぁ。音をコピーしたり再現したりだと形骸化するだけでさ。もし、その衝動がなくなった時は終わりなんだぁ」―甲本ヒロト

「沈黙の宇宙」から言葉や芸を生成することで、ほんの一瞬でも、「きりもみしながら音速で飛行するかもめのジョナサン」のように、あるいは「金星のパイロンをかすめて輝きながら飛び去る石」になれるのかもしれない。なんてことを思うんだなぁ。

関連記事

『キッドのもと』浅草キッド 弱いからこそかけがえのない男の物語

『お笑い男の星座1・2』浅草キッド カッコ悪くてカッコ良い星座をつくる

THE HIGH-LOWSの『十四才』とリチャード・バックの『かもめのジョナサン』について思ふ

神の復活祭!?“神様”マイケル・ジョーダン50歳!

ついに50歳になったということは、そろそろ負けず嫌いのマイケルがカムバックしてくるぞ。限界は幻想に過ぎないことを証明しに。



“神様”マイケル・ジョーダンが2013年2月17日に50歳の誕生日を迎えたそうです。それを祝して作られたのが上の動画。おそらく50歳にひっかけて、キャリアを通したオールタイムの超絶プレーTOP50をまとめています。もはやため息しかでませんこの動画。一個一個、「これはいついつの何の試合で、どういう場面で…」って解説していきたいとこなんだけど、それはまぁさすがによしときます。。

それにしてもこうして観てみるとね、改めてプレーオフやファイナルなんかの大一番での試合を決定づける、いわゆる「ザ・ショット」の多いこと多いこと。。誰もが「ジョーダンが打つ」って確信してるのに、誰にも止められない。。あたかも時間を思いのままにコントロールしてるようにすら見える。。

さらに改めて思うのが、緊迫した闘いの真っただ中のプレーなのに、その一連のムーブのフォルムの惚れ惚れするほどの美しさ。。真剣勝負なのにもかかわらず、一人優雅にスラムダンク・コンテスト状態。。やっぱり次元が違う。。

これまできっともう何兆回も使い古されてきた表現なんだろうけど、やっぱりこれ以外に何と言えばいいの?

「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」byラリー・バード

ところで、マイケルは4年前の殿堂入りセレモニーのスピーチでこんなことを言っていました。


One day, you might look up and see me playing the game at 50. Don't laugh. Never say never,
そのうち、皆さんは私が50歳でバスケットボールをしている姿を見ることになるかもしれません。笑わないでください。絶対ないとは決して言いません。

because limits, like fears, are often just an illusion.
何しろ、多くの場合、限界も、恐怖と同じように幻想に過ぎないのですから

―引退セレモニーより

もちろん冗談なのはわかってるんだけど、ジョーダンなのはわかってるから本気にしちゃう………。とかw今まで何兆回も繰り返されてきたと思われるベッタベタなダジャレwをつい言いたくなっちゃうぐらい神々しいんですこの人は。。

ちなみに上記の動画はいま現在、世界中で話題になってるらしいです。あたかもキリストの復活祭のごとく、信者たちが沸きに沸いてる。やっぱり神たる所以だわ~。

関連記事
マイケル・ジョーダン殿堂入りセレモニー 限界は幻想に過ぎない
« | HOME |  »
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。